切込隊長「修正主義者とでも言おうか」
で見られた、「ネット右翼」なるラベリングを巡る考察(巡らないけれど)。
>『綺麗は汚い 汚いは綺麗 綺麗は汚い 汚いは綺麗 さあ飛んで行こう 霧の中 汚れた空をかいくぐり』
シェークスピア「マクベス」
右翼も左翼もどちらも似たようなものでたとえば、ARTIFACT@ハテナ系さま『 [一般]靖国陣社にA級戦犯を合祀したのは誰か?』
をご覧下さい。
右翼と左翼ともにかけ離れているように見えてその出自を探ると元右翼、元左翼という方はそこかしこにおられる(例えば藤岡信勝)。極論と極論自体の論理的距離は遠いように見えて、その心理的距離というのは「天才とバカが紙一重」なるごとくとても近い。
上記記事でも掲載されているように、両極端ではない中庸に留まろうとするならば
>「秦郁彦といえば、資料をガチガチに調べる歴史学者で、偏った歴史観を批判し、右や左の両方から疎まれる素敵な歴史学者」
となって浮いてしまう。これは議論によって真理に近づこうというよりは議論のための議論ということがまずはある。だからこそ、内容ではなくその個人的背景、属性によってお互いがお互いを罵って事足れりとなる。たとえ議論のはじまりが何か別のものであったとしても、ひとたび敵をある言葉でラベリングするともう取り返しはつかない。どうしてそうなってしまうの?
それは中庸な立場というのものの足場が不確かなことにある。さまざまな客観的証拠や論争の中に垣間見られる具体的妥当性を探り、その立場を常に変化させうる柔軟性、勇気をもつということ。だからこその極論から極論への立場の移行は見られやすいともいえる。今ある自分の立ち位置を否定する際にはその立場に至った認知過程を疑うよりも、同じ認知過程を使って立ち位置を移行するほうが楽だから。悪いのは責任があるのは過去の立ち位置であり、選択した自分ではないと考える方が自尊心の維持には適している。
>『力のない正義は無効であり、正義のない力は圧制である。力のない正義は反抗を招く。なぜなら世には悪人が絶えないからである。
(中略)
>正義は論議されがちであり、力は甚だ容認されやすく論議されない、そこで人は正義に力を与えることができなかった。それというのは力は正義に反抗して、正義は不正であり、自分こそ正義であると言ったからである。』
パスカル「パンセ」
どうして両極端の意見に人は組しやすいのかということについて、それは自分が正しいと、正義であると思いたいからと言い換えることも出来る。だからこそその立ち位置は無謬でなくてはいけない。これが中庸が嫌われるところの所以でもある。そこでは自らが正義である以上、できうるかぎりの大声でもって過激なことを主張しさえすれば使徒となれる。
正義に身を委ねる心地よさは宗教そのもの。でも正義自体の正しさを担保するものは何?それは力、信徒の数でしかありえない。だからこそ熱狂的なエヴァンジェリスト
となる。でも正しさの概念はそれ自体正しさに関わるもので他とは関係のない概念であるはず。ただ人は一人では不安なんだね、その辺りはその他のエセーで触れたので割愛する。
>『月光仮面も少年探偵団もベトナム戦争のような国際的事件には出動できない。そこでは正義と悪とが複雑に交錯し、お互いに正義を名乗りあっているので、それに参加しようとするものは自ら「正義の選択」を迫られるのだが、月光仮面のおじさんも少年探偵団員も与えられた「正義」のためばかり働いてきて、それと見極めて「正義観」などもつことができなかったのである。だが正義のために働こうとするものは自らの正義を作り出さなければならない。
寺山修司「死者の書」
でもそんなに正義って必要なの?絶対的正義など絶対にありえない。あるのは相対的正義だけ、それは人の世なのだから当然のこと。当たり前といえば当たり前すぎる結論だけれど、そんな絶対的なものによりかかることなく自らの正義を事に合わせて判断していくことが必要ということ。
正義の具体例は例えば、よくある少女の悲劇談について。
にあります。 この記事
とあわせ読んでその悲痛な正義の叫びを感じとってください。
>『およそ語られることは明晰に語られうる そして論じ得ないことについては人は沈黙せねばならない』
ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」