集団愚考その4 | あざみの効用

あざみの効用

或いは共生新党残党が棲まう地

どうして今回の記事に関しては宗教絡みのカテゴリーに分類したのかというとそれは組織論に絡めてのものです。とりあえず記事をお読みください。

元常務が語る武富士の今 なるもの


>「誰が経営者だ。おれが経営者だ」「おれが大丈夫だと言えば大丈夫だ」
>経営権に固執 株売却は難航

↑の段についてはこれまでの記事でいろいろと書いてきました。


>“忠言”の結果『不当に解雇』
健晃氏は率先して、電話で部下にノルマ達成を厳しく迫る手法を繰り返していたという。罵声(ばせい)による檄(げき)だから「バキ」。そう呼ばれ社員から恐れられていた。同本部の部下も、健晃氏と同様のバキを展開していた。

↑【バキ】の類義語でより使用頻度の高い用語が抜けているので補足しておきますね。

【ツメる】(この説明は証券スレで見つけたものです)

債券や投信など(以前は手数料を含む)募集物を客に押し付けることのできない社員を課長や支店長が「どの客でやるんだ!」「いつまでにやるんだ!」などと鈴木宗男のように恫喝し、社員を追い詰めること。

つめられた社員は仕方なく目論見書を渡さなかったり、客に無断で買ったり、ボケたババアに商品説明をほとんどしないで販売した。出世する社員はコレを得意技にして、部下に犯罪的な仕事をさせることが出来る奴。

↑の下線部を元に更に翻訳すると、上層部が現場を無視して立てたノルマを社員にどのような手段を用いても達成するように精神的に責めたてること。

例えば毎月営業(貸付残元金増ノルマ)と管理(不良債権発生率ノルマ)の達成日を課し、その数字を達成するまで営業統括本部→支社→ブロック(一定地域で数店舗を統合した単位)→支店→個人レベルで叱咤激励という名の精神的(直接の物理的なものはさすがに少なくなったのではないでしょうか?)圧力を加え続けることです。一月に2回の達成日があると結局のところ始終締め切りに追われ続けることになります。これは組織を考える上で社員を消耗品として扱うならば優れている。常時限界点に近いノルマを課し(そしてたとえ達成したとしても次のノルマ軽減はさせない)続けることで社員はその他のことを考えることをできなくさせる。そして上への不満をバネに横の強固な連帯が築かれる(しかもその横の繋がりは上下の層で分断的)。しかし、消耗品として心身的に疲労した社員はただ辞めていくばかり(これは年功序列的な組織として人件費の上昇も抑える)であるので縦断的な不満の蓄積もない。唯一のそして根本的欠陥は経験の蓄積ができず人材が育たないこと。


>だが、「武井氏はこうした強引な手法が貸し倒れの増加や顧客からのクレームを招き、業績悪化につながるとの懸念を抱いていた」(中原氏)。

>一時は健晃氏の上司でもあった中原氏は復職時、これをやめさせるよう武井氏から「特命」を受けていた。しかし、実際に同本部に配属されると「健晃氏がトイレに行くときに部下全員が起立して、いってらっしゃいませと唱和するような状態」(中原氏)で、注意は困難な状況だった。

>意を決して周りの社員にバキをやめるよう注意し、健晃氏にも忠告したが、それから間もなく、解雇の通告を受けた。武井氏からは「親子の仲を裂く気か」と、特命とはまったく矛盾する叱責(しっせき)を受けたという。

>中原氏「解雇」後も、ごたごたは続いている。川島常務は今年一月、突然退任した。元久存社長も就任一年を待たずに今月、突然退任。元久氏は「今は勘弁してほしい」と言葉少なだった。


組織を統制する側としての理想論(組織自体の理想は有機的に統合と委譲を状況に応じて展開することで外部環境の変化に適応することなので)を考えると、組織の構成員が劣悪な労働条件を嬉々として受け入れ、盲目的に上層部の命令に従うこと。すなわち究極的には宗教組織に行き着く。そしてこのことをワンマン経営者として鳴らす方々は熟知している。論語を毎日朝礼で読ませたり、創業者精神を聖典代わりにしたり、トップを神格化して逸話を数々作ったり、オーナーを無謬の存在として崇め奉ることまさに神を祀るが如し。ただ以前に記したように社会的成功が示すものはあくまで経営者としての才覚(それも多分に時流に乗れたというような運に由来することも多分にある)であって全人格的に優れていることを示しているわけではない。

会社組織が新たな社会的連帯の仕組み(共同体)として働いていると喝破したのが小室直樹 だったと記憶している。その際に共同体である特徴として指摘したのが「二重規範の存在」だった。つまり社会の法規とは別に、組織内法規が存在し双方が衝突するような事態が生じた際には後者を優先することがメルクーマールになるというものだった(前者を優先すると「裏切り者」と烙印を押されてしまう)。今、盛んにコンプライアンス(法令順守)というようになったのは前者を優先することを社会が正義と意識するようになったからに過ぎない。

>『集団のために働くということは、集団内における人々の個人としての行動を支配する多くの道徳的拘束から人々を解放するかのように思われる。』

                       ハイエク「隷従への道」