麗しき隣人愛 | あざみの効用

あざみの効用

或いは共生新党残党が棲まう地

>『心は絡み合った迷宮のようなものだ。一つの道をたどり見出したと思われた出口はまた別の道の入り口となっている。例えば「大切なもの」を見つけそれを守りたいと思うことは「大切なもの」以外のものに敵対する潜在的悪意の芽生えでもある。しかし大抵の場合人はこれを自覚しない。それは大変幸福なことかもしれない。なぜならそのことを自覚し、潜在的悪意を忌むがゆえに「大切なもの」を放棄したとしてもそこにまた新たな迷宮の入り口が見つかるだけだから。人は決して自分の迷宮から逃げることはできないのだから。』

    サリーナ・ライアン「心の迷宮」(←あえて原作は明かしません)

誰か特定の人を愛することを忌むがゆえに、万人への愛として神への愛に身を捧げる素敵な響きです。

近代(民主主義)社会を可能とするのは村落共同体を超える倫理、想像力の実現です。「旅は恥の掻き捨て」が可能なのは、余所の土地ならば自分の見知らぬ他人しかいないのでそこでどのような失敗をしようが自分の尊厳(評価)を傷つけない=傍若無人な振る舞いをとどめる動機付けを失うことにあります。それを実現するものの一つが宗教であり、神の前における平等です。ここまでの私の論考でいうならば「人は皆いつか死ぬという点で平等」ということこそが本質なんですけれどね。同じ神を崇拝する人は同胞であるとして生活している半径に限定された村落共同体を超える宗教共同体が可能となります。拡張していけば言語、国家、民族、歴史…とどれも同じです。

神の前の平等という点で電網山賊さま『神の「原罪」』 をまずはお読みください。原罪という人であれば(同じ宗教を信奉していれば)生まれながら背負わされるものが平等意識、倫理を担保するという論考です。

同様にして「隣人愛」という概念も考えられます。かつてユダヤ教(旧約)においてその救いを受けられるのはユダヤ民族に限定されていました。それを全人類に拡張したのがキリスト教(新約)です。「よきサマリア人のたとえ話」 などはその典型といえます。民族愛から究極的に人類愛へと拡張することが隣人愛の核といえます。しかし、ひとにとって親や子ども、そして愛する人と同様にまったくの他者を愛するということが可能なのでしょうか?

>『天使というものは人を憎むことが出来ないものでございますし、また人を愛さずにはいられないものでございます。いったい総ての人間を、総ての同胞を愛することができるものでございましょうか?私はこうした問いをよく自分の心に問うてみるのでございます。もちろん、それは出来ない相談ですが、むしろ不自然といってもよいくらいでございましょう。抽象的に人類を愛するということはほとんど例外なく自分ひとりを愛することになるのでございます。』

                      ドストエフスキー「白痴」

所詮は神からの救済にすがるための信仰に過ぎません。自分が救われるために肉親の情を希薄化する、それは自己愛にほかならないということです。そもそも愛情も感情である以上、無尽蔵なものではありません。人は有限の時間しかもっていませんし、脳処理の限界として感情も認知という資源配分を逃れることはできないからです。例えば愛する人(恋人・夫婦)が何人もいる状態を考えてください。本来ヒトも一夫一妻制よりも可能ならば一夫多妻制が自然であるという議論を加えても別段構いません。誰か特定の一人と付き合っている状態と、何人もの相手と同時に付き合っている状態で一人一人に割り当てられている愛情量は同等といえるでしょうか?もちろん愛を量的に計ることはできません(脳内物質の分泌量を個人ごとに計測すればなんとかなるような気もしますが)。それでも愛しているならば私だけを見てというのが自然な感情でしょう。だからこそ嫉妬という感情も備わっています。

愛は分ければ無限に増える類のものでは決してありません。愛もまた有限な資源であるということふまえて、その配分にあたっては収益が最大化するように合理的に配分しましょう。