本日、八甲田山行軍(時間論序) | あざみの効用

あざみの効用

或いは共生新党残党が棲まう地

「哲学すること、それはどのように死ぬかを学ぶこと」
                       モンテーニュ「エセー」

…冬コミ初日逝ってきました。

始発でお台場到着(天候曇り時々雨)→7時(雨足強まる)→8時(雨足弱まる)…とにかくめちゃくちゃ寒い。寝ちゃダメだダメだダメだ(脇のパナソニックの巨大電光掲示板でエヴァの宣伝してたので)。

9時間際雨足再び強まる、もう笑うしかない状況動かないと死にます。
9時45分列がようやく動き始めも、ミゾレから雪のコンボ炸裂!!

えーっととりあえず巌窟王ムック (今回、2日とも繰ることに決めたのは一日でこれと「ひぐらしの鳴く頃に」共に手に入れるのが厳しいと読んでいたからだがどうやら正解ですぐ完売した模様 )と、ついでにひびき先生の新刊・既刊本 をゲットして明日に備え即帰宅したんだけれど、銀世界が嬉しくて映画見てきました _| ̄|○


で、寒さに意識が朦朧としながらのアクチュアルな「死」についての試考。

時間論序としているのは、時間についてのさまざまな考察が巡らされる理由は人の一生が生とともに始まり死で終わる有限なものだからだ。

「人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定とその不自由さに気付くのであろう。人間は永遠に自由ではありえない。なぜなら人間は生きており、また死なねばならず、そして人間は考えるからだ。」
                         坂口安吾「堕落論」

まずその始まりにおいて人は自ら選択して生を得ることは出来ない。両親(これからはバンクがあるから片親でも可だけれど)の選択(あるいは未必)により、その生が始まる。もちろん精子競争の過程に生への意思を認めるならばそれはまた別問題であり、それはすなわちいつからが人間なのかという中絶問題の核心だと思うが、少なくとも生の選択権を単独で有するのは他人である。

またその終局において、例えば絶対的権力者の始皇帝が蓬莱に不老不死の妙薬を得ようと足掻いた逸話は有名であるが何人であろうとその死を免れることは出来ない。

「唯一不滅のものである死が我々皆を分け隔てなく扱ってくれる。死が与えてくれる平穏と慰めは万人のものだ。汚れた者も無垢な者も、富める者も貧しき者も、愛される者も愛されない者も。」
                         マーク・トゥェイン

なんと自由を謳歌する人間がその始まりも終わりも自ら選択・決定できないなんて(自殺は一端保留)、するとその生と死の間はどうなのか?その空白を埋める典型例が宗教であり、家族である。つまりは自らが意味のある存在であることを担保する何かを生の前、死の後に確保しないと絶対的な虚無に包まれるということらしい。この辺りはここまでの無神論や恋愛論でも触れているが総ての要は時間だ。時間が人間を支配し続けている、その支配に対して打破、妥協、無視等さまざまにあがく存在を人間と定義してもいいと個人的には思っている(ここは別の機会にもう少し詳述予定)。

「毎日次のように言える人は己を支配して楽しく生きる人だ。私は生きたたとえ明日はユピテルが暗い雲で空を蔽うとも、輝かしい太陽を与えようともどちらでもよいと。現在に満足する心は未来を思い煩うことを憎む。」
                  「エセー」(ホラティウスの引用)

「私の肉体的状態が常にその時期相応のコースをとったことこそ私が自分の運命に対してもつ主な感謝の一つである。私はその芽を見、花を見、果実を見、今やその冬枯れ(ブログの名前はここから「も」拝借しています)を見ている、幸いにも。だってそれが自然にかなっているのだから。私は今すこぶる心静かに現在の病苦に耐えている。なぜならそれはその来るべき季節に来たのだから。またそれはわが過去の生活の長い幸福をいよいよ懐かしく思い起こさせるから。」
                       モンテーニュ「エセー」