鑑について | あざみの効用

あざみの効用

或いは共生新党残党が棲まう地

ARTIFACT@ハテナ系 さまでまとめておられる【オタク歴史認識欠如話続き】が大変興味深かったので。

オタクが歴史を軽視しているか否かという個別の問題から始まって、結局はオタクの定義にまで行き着いてしまうのが極めてオタク的といえばオタク的です。どのような問題でも源流は同じということのようです。

>『無知に耽溺するものはあやめもわかぬ闇をゆく 明知に自足するものはしかしいっそうふかき闇をゆく』

                         「ウパニシャッド」

【オタクの歴史認識】ということでまず浮かんだものが「サブカルチャー神話解体―少女・音楽・マンガ・性の30年とコミュニケーションの現在」 と、「新現実」 です。帰結はサブカルチャー(カウンターカルチャー)としてアニメ、漫画、ゲームが隆盛していく過程においてそれらはすべて一つのもとして全景が見渡せる地点が存在した(これも今となっては怪しいけれどね)。そしてメインカルチャーという国民共通の文化(「輝ける成長神話」とか)を喪失した時点でサブカルチャーとしてのオタク文化も軸を見失い細分化、分断化が進んでいった(いく)というものです。

まあ、単にオタク(広義のね)が商業として趣味として確立していく中で作品の蓄積、参加者が増えていけば必然的に総てを見渡すのは無理になるのは有限の時間と有限の能力をもつ人間においては当然のことという気がします。卑近な例だとほらアニメだけに限定しても週70本近く放映しているのにこれを全部視聴している人なんてアニメオタクでもいないでしょ?この状態が90年代後半から続いているんだから、それだけでも過去の遺産まで手を伸ばして…と言っても大半の人にとっては今流されているものを消化するだけで手一杯、お腹いっぱいということでしょう。

この点に関して、人工事実さまでも以下のように述懐されている。

>これは他の人も言っているように、ジャンルの充実化によって、個人では追いかけられないぐらいの情報が出てきてしまっているから、もともと過去を知りたがる人自体が少数派だったのが、ますます少数派になっているだろうということ。歴史把握に関しては、ある世代に「能力」がないとかではなくて、接してきた長さの差による発生が多いために世代話になると。

だから「歴史」をどうするかいなかはそれこそ「オタク歴史オタク」がてがければいいだけのこと(東氏とかね)。ただ逆に彼らは全景を彼らの視点で切り取ろうとするがゆえに細部に疎い。まさに「森を見て木を見ず」だからこそかれらの言説はその知識の薄さからオタクには評判が悪い。そもそもそんな全景を見渡す知識って必要?だって純粋に興じるにそんなの必要ない。

だからもしも「歴史」を伝承したいとか本気で思うのならば、過去の作品を鑑賞したいという意欲を湧かせる作品を世に送り出すことだし、~のパクリとかオマージュとかうざがられるような水を差すやり方ではなくてより楽しむために~みたいな手法が必要と思う。

成功例でいえば、過去のヒーローものの魅力を再認識させた「スーパーロボット大戦」 とか、オマージュやパロディ満載で元ネタ発掘にいそしませた「ギャラクシーエンジェル」 とかね。

これは【オタクの歴史】に限定したことではなくて、歴史を学ぶ意味そのものともいえる。自国の歴史を学ばせる意味(国語もね)は「国民」を作り出すことだけど、学ぶ側にとってそんな理由では動機付けとして有効か否かなどこの御時世で考えるまでもない。歴史を学ぶとどういうご利益があるのかということ。教養について浅田彰氏がフローとストックの関係に例えていた。それは平静な世の中で単に生きるだけならばフローだけで問題なく生きていける。しかし、いざという乱世において役に立つのはストックとしての教養であるというもので、歴史も教養のひとつである以上そのまま敷衍可能といえる。

ただね、私自身はそういう実生活、人生においてのお守りとしての意義よりも、人生の快を最大限追及するために歴史を学んでいる。それは世界や社会を斜め、ある種の神の視点として見下す歪んだ喜びだけど。

「見ろ、人間がゴミのようだ」みたいな…。 

>『歴史について語るとき事実などはどうでもよい。問題は伝承するときに守られる真実の内容である。虚構であるがゆえに他国であり、手でさわるこのできない幻影である「過去」をしばしば国家権力が作り変えて伝承してきたように、ぼくたちもまた時の回路の中で望み通りの真実として再創造していく構想力が必要なのである。』

                              寺山修司