貨幣論 序論 | あざみの効用

あざみの効用

或いは共生新党残党が棲まう地

フジテレビの筆頭株主にソフトバンク系投資会社 という攻防戦の大きな節目を迎えて。

堀江氏に心情的に許せないものを感じる方々は、人生の中で嫌というほど思い知らされている真実(「勇気お金があればなんでもできる」)を、躊躇いも無くあからさまに突きつけられたからだと思う。確信犯である堀江氏はそのことをもって既存の枠組みを破壊しようとしているのだから、お金では心は買えない云々は彼本人には届くわけのない、自らを慰める意味しかもたない全く無効な言説です。むしろそのようなことを感じない人にとっては一連の騒動は全くどうでもいい他人事(ほとんどのニュースはそうなんですけれどね)ことでしかないわけです。

>『ある者は地位をあがめ、ある者は英雄をあがめ、ある者は神をあがめる。そしてこうした崇拝の対象に関して、彼らは意見を戦わせる。しかし、金をあがめていることではみんな同じなのだ。』

                         マーク・トゥエイン

私は合理目的性で社会を蔽いつくさんとする近代社会の訪れを高らかに、端的に宣言した言葉は2つ、「時は金なり」(フランクリン)と「神は死んだ」(ニーチェ)と考えている。前者の言葉の通り、貨幣について考える際には時間についてもパラレルに考えなくてはその本質の部分を見落とすことになるとも。そもそも現在、時間はお金を生む(利息)し、お金で時間を買うことも出来ます(高度医療、時給)。

参考;時間論

ともにその初めは他の目的のための手段に過ぎなかった。時間は生活のリズムを一定にするため、農業などの循環的作業のそのサイクルを図る手段であり、貨幣は他のものを得るための中立的な交換手段であった。ともに他者との関係性を調整する役割を果たしていたということも押さえておくべきことです。しかしやがてすべてに中立的であるがゆえに価値を図る秤として、すべての価値の単位になっていく(それが最もよく現れているのが時給¥~という発想)。しかしやがて疎外(目的と手段の混同)が起きていく。貨幣(時間)があれば誰であろうと何でも買える(できる)ならば、その手段を求めることが総てを叶える、万人にとっての共通の夢になるというわけです。自給自足がありうべからざる現在、お金がなくては何もできません。

>「あなたが一番影響を受けた本は何ですか?」
>「銀行の預金通帳だよ。」

>『お金はこの世で最も大事なものだ。個人であれ、国家であれこの事実を土台とすることなしにどんな優れた道徳もありえない。』

                       共にバーナード・ショー

資本主義社会においてはあらゆるものが貨幣に還元可能だからこそ、あらゆるサービスを貨幣があれば享受可能だからこそ、人には還元不可能なものを求める欲望も生じます。これまで恋愛・家族論で論じてきたように恋愛にせよ、家族にせよ、それらが提供するサービス(心理的なものも)の要素に一つ一つ分解すると総て個別に対応するサービスが存在することが分かります。仏教の「空の論理」「縁起論」ではないですけれど、分解したものの総体がもとのものをそのまま表すということもないです。その要素に還元できないものが何かは人それぞれだと思います。むしろコレだと普遍的に表せるものならばそれはそのまま貨幣で贖えます。信仰の提供するものも同様ですし、夢もまた同様です。

そしてその個人で解決しなければいけない(見付けるべき)何かが分からないとき、認知の問題として人は富それ自体を自分の中で価値を低めることで、それへのアクセスの叶わない自尊心を調整しなければならない。

>『富を弁解でもって償おうなどと考えるなー富はこれを咎める者に金を貸してやることで補償しなければならない。』

                       ジャムラック・ホロボム