貨幣論Ⅰ | あざみの効用

あざみの効用

或いは共生新党残党が棲まう地

貨幣論 序論 だけで放置していた続き?

前回の話を端的にまとめると、

『人類の現状においてお金は一つの知的機能であり、その理由によって考察に値する。百万フランは一人か二人の天才に値する。これは百万フランをうまく使えばもっぱら精神の力にのみ帰着するような一人か二人の天才と同じだけのことを人間精神の進歩のために為しうるという意味である。』

                             ルナン

自給自足より物々交換、より利便性を高めるために信頼を物象化した貨幣の誕生。そしてやがては交換の手段にすぎない貨幣が、何でも交換できるがゆえに貨幣そのものを得ることが目的化していくという倒錯・疎外が起きていく。ただ貨幣の価値を支えるのはあくまでも、いつでも何とでも交換できるという信頼そのものでしかない(資本主義というシステムの恒常性に対する無根拠な信頼)ことを見据えようというもの。

この辺りは、ヴェニスの商人の資本論 岩井 克人 (著) 構造と力―記号論を超えて 浅田 彰 (著) がお勧め。

蛇足ですけれどヴェニスの商人 シェイクスピア (著) の解釈とは、愛情、友情といったメローな情の絆が法律・契約といったドライな関係に膝を屈したというものだということは覚えておいたほうがいい(シャイロックはあくまでも契約の文面通りの解釈に負けたに過ぎない)。

内田教授「資本主義の黄昏」

NEETの問題は、「いいから、とりあえず人間は働いてみるもんだよ。給料はたいしたことないけどね」というおそらく数万年前から人間が(とくにその理由を問うこともなく)慣習的に言い交わしてきたことばを、私たちの時代が「言い渋っている」ことに起因する。私はそう考えている。「勉強も仕事も、なんか、やる気がしない」というのは、言い換えると、「『やる』ことの『意味』が私にはよくわからない」ということである。彼にとって、問題は「意味」なのである。
(中略)
NEETにむかって学びと労働の必要性を功利的な語法で説くのはだからまるで無意味なことなのである。それとは違うことばで学びと労働の人間的意味を語ること。それが喫緊の教育的課題なのである

???何度読み返してもぐちゃぐちゃ考えずにとりあえず働け、若者は上の世代に搾取されろって内容にしかとれないのですけれどそれでいいの???労働に意味を見出す???そんなのベネディクト修道会に由来する「祈り、働け」でしかありえないのですけれど???

そして神亡き現代においては一般論として論ずるのならば、労働は貨幣を得る手段でしかありえない。もちろん自己実現の一つとして労働を組み込むことも可能だがそれは万人に許される類のことではないことは、自分の幼い頃の夢と付き合わせれば分かるだろう。自己実現といっても歳をとるにつれて妥協と自己欺瞞でもって自己催眠をかけているに過ぎないのではあるまいか?(決してそれが悪いといっているわけではない、私がいいたいのは確固とした正しい「意味」があると考えているその素朴な信念に対する疑念です。)

『富裕も貧困も各自の考え方次第である。各人はそれぞれの考え方次第で幸福であり不幸でもある。人がそうと信じるその人ではなしに自分でそうと信じるものこそ満足しているのだ。いやここではただそうと信じる心が本質と真実とを与えるられるのだ。』

                     モンテーニュ「エセー」