仕事につながらない前衛のレッテル ~農業まとめ~ | あざみの効用

あざみの効用

或いは共生新党残党が棲まう地

2006/10/19 は、バカヒの底力をみせつけたオールひらがな天声人語ですね(…これはなんであまり語り継がれていないのかな?)。

白い恋人の失恋の危機
>グルノーブル冬季五輪の記録映画(68年)は「フランスでの13日間」という無味乾燥な原題である。この作品がまとう甘い記憶は、全編に流れるフランシス・レイの音楽と、邦題「白い恋人たち」のためだろう。命名の妙だ。それにあやかった北海道銘菓「白い恋人」が、発売30年にして失恋の危機にある。売れ残りの賞味期限を1カ月先に改ざんするなどの不祥事に、裏切られた思いの人も多かろう。

というわけでせっかくですので天声人語から墓荒らししてみます。

>全国に名を知られた後も、「恋人」は北の土産の立場を守り続けた。この商才がご当地ブランドを生んだ。商品名が優美なだけに、現実との落差は哀れでさえある。たとえば、発売前に検討されたという「冬将軍」であれば、ここまでの名前負けはなかったはずだ

朝日新聞も夕陽新聞にしておけば「あかひる」なんて言われるここまでの名前負けはなかったかもしれませんね、納得納得。

>石水社長は5月、地元紙に連載された自伝の最終回で「伊勢の赤福のように百年、二百年後まで愛される『伝統』にしたい」と語っている。今年創業300年の赤福の餅は、ごまかせない「製造日限りの販売」だ。伝統にはそれぞれ、理由がある。(天声人語 8.20)

と赤福を褒めちぎっていますwww「また朝日か」などといわれてしまうにもそれぞれ理由がありますね!


【追悼・黒川紀章氏】名は売れたが設計依頼が来なかった駆け出し時代
>1962年、東京大学の大学院博士課程に在籍中に、自分の設計事務所を開きました。結婚したばかりのころで、東京・千駄ケ谷のマンションの1DKが新居兼事務所となりました。

事務所を開いたといっても、事務所登録をしてドアの上に看板を掲げただけでしたから、しばらくは設計依頼がなく、全然食べられませんでした。でも、精神的には非常に充実していて、つらくはなかったですね。実際、具体的な設計依頼はないんですが、未来都市の構想を練ったり、メタボリズムの研究をしたり、設計を頼まれたつもりで図面を引いたり。夢中で製図板に向かっていて、気が付いたら昼も夜も食事をしていなかったとか。そんな生活でした。今もあまり変わりませんが。

  。・。∧_∧。・。
 。゚  ( ゚´Д`)  ゚。こんな時代もあったんですね…
   o( U U
    'ー'ー'

>本の執筆にも熱心に取り組みました。最初は60年の「プレファブ住宅」という本でした。60年代には、「都市デザイン」(65年)や「行動建築論」(67年)などを相次いで出版しました。これらの本がある程度売れたおかげで、そこそこ印税は入りましたし、本や雑誌の原稿の執筆依頼も続きました。それで何とか食いつないだという感じですか。設計と執筆が半々くらいの毎日でした。

紙と鉛筆だけで富を世界から吐き出させるに至る原点ですね。

>本を書いたりコンペで1位になったりで、専門誌ばかりでなく、新聞など一般メディアにも頻繁に取り上げられていましたが、実際の設計の仕事は、なかなか来なかったんです。でも、世の中には奇特な方がいて、「新聞記事を見た」といって仕事を依頼してくれたのです。山形県寒河江市の日東食品の工場(64年竣工)で、200万円もの設計料をいただきました。「こんな大金をもらっていいんだろうか」と思ったほどです。

なんかとても良い話です…おそらくこういったことがあったから、今度は自分が地方をう番と立ち上がったのかもしれませんね。

>ただ、博覧会の実験的なパビリオンのため前衛的建築家のイメージがついて回り、仕事が遠ざかってしまったのです。財界の人から、「三角やカプセルでは困ると担当者が言うので、ほかの人に頼んだ」という話を何度も聞きました。この時期も、ユニークな考えの方に救われました。中銀カプセルタワービル(東京・銀座、72年竣工)をやらせてもらいました。一方で、「カプセル建築の黒川」という印象が強固になったようです。昭和天皇の園遊会で、陛下から「まだ、カプセルをやっているんですか」と声をかけられたくらいですから。でも、あのような建築が普遍的に受け入れられるわけではありません。

微笑ましい…。

事務所が軌道に乗ってきたと言えるのは、ようやく7~8年前(編集部注:1989~90年)くらいですよ。それまでは結構負債もあって、本当に返せるか不安を抱えていました。最近ようやく少し先まで見通せるようになったという状況です。今、あるプロポーザルの締め切り間際なのですが、先日も何枚もスケッチを廊下に並べて床に座り込んで見比べているうちに所員が皆帰ってしまって、結局、自分が最後でした。(談)(ケンプラッツ 2007/10/15)

黒川党首がどういう方だったか伝わるとてもいいニュースです。

黒川紀章氏 選挙出馬時と異なり業績称えられる
>世界的建築家の黒川紀章氏が12日、心不全のため74歳で亡くなった。黒川氏と言えば、最近では東京都知事選と参議院選挙に出馬したことで注目を集めたが、死後、同氏に対する感想はネットでは随分変わってきている

そうなんですか、嬉しい限りです。

>“トンデモ候補”と揶揄するコメントが数多かった。だが、現在は「あの選挙に夫婦で出たってことがねぇ~世界的な建築家だけで評価してあげたかった…」「偉大な素質を持った方で、世界的にも活躍されていたので、とても残念でした」「追悼番組で業績なんかを振り返ると、やっぱり凄い人なんだなぁ~」など、故人の業績を称えるコメントが大幅に増えている。(アメーバニュース 10.16)

・゚・(つД`)・゚・。


以下 農業ニュース(ムラは問う)+アニメ感想

対米FTA 怒れる韓国
日本でも、オーストラリアとの間でFTAが柱の経済連携協定(EPA)の交渉が始まった。しかし、毎週末、首都ソウルで数百人規模の抗議活動が繰り広げられるような「激情」は想像しにくい。背景には、専業農家が六割以上を占めるという、日本とは異なる韓国の農業構造がある。人口の五割近くがソウル首都圏で暮らす一極集中が韓国の特徴。中山間地域の農村には兼業の機会は少ない。逃げ道がない以上、農への逆風は日本以上にムラの存続を危うくする。

日本もEPA締結する前に他国の例に学びましょう。祟り神松岡でもなんでも使えるものは使ってw

韓米FTA;4月2日、交渉開始から1年2カ月と比較的短期間で妥結。韓国は自動車、繊維分野の関税撤廃を勝ち取った一方、農業分野ではコメ以外の関税引き下げに踏み切った。牛肉の関税(40%)は15年間で撤廃。韓国政府は9月の通常国会に批准同意案を上程。年内可決を目指す。(中国新聞 5.14)

果たして一次産物と工業製品、比較優位を確立するに長い目で見たとき得になるのはどちらなのでしょうね…。

過疎高齢化で縮む「農」
構造的な問題の解決を、政府は営農規模の拡大に求めた。例えば九七年に始まった経営移譲直接支払制度。リタイアする高齢農家に現金を支給し、土地を担い手農家に集約して規模拡大を目指す。大規模経営の「担い手」支援を色濃くする日本のさらに上を行く施策である。しかし効果は薄く、制度は三年後に終わる予定だ。政府のシンクタンク、農村経済研究院の金正鎬(キムジャンホ)先任研究委員(53)は、スケールメリットで米中に対抗しようとしても無理とみる

常識的に考えてそうなるはずなんですが、日本は同じ政策を推進していますね(参院選の敗北を契機に見直し始めていますが)。

>小規模な家族経営による「農」を主体にしてきた韓国と日本。同じように農村は縮小し、食料自給率は低下の坂道を下る。韓国は一九九〇年の62・5%が49%に。先進国で最低水準の日本(40%)の背中を追う

「頑張っている農家が報われない~」みたいなアホ文句をぬかす連中は多いですが、まるで頑張っていない農家が山のようにいるみたいじゃないですかそれだけでも失敬じゃありません?資本の規模の話なんてどう逆立ちしようが精神論ではカバーできません><

日韓農業の比較;1970年、韓国の農家人口のうち60歳以上の割合は7・9%。日本の半分以下だった。それが2002年には38・2%と日本の36・8%を逆転。農家一世帯あたりの世帯員数は日本の4・4人と比べ韓国は2・8人。高齢者世帯の割合は日本よりもずっと高い。専業比率は、兼業機会の少なさから、日本の3倍を超える67・1%。(5.17)

韓国は実に興味深いサンプル、実験ですね。

安価な中国産 タイ席巻
>転機は、タイを含む東南アジア諸国連合(ASEAN)と、中国のFTA締結。正式発効の二年前の二〇〇三年、野菜や果物の関税を先行撤廃した。協定から三年。中国からの野菜と果物の輸入は四・四倍に膨らんだ。農家にとって特に痛かったのは、輸入が倍増したニンニク。タイ料理に欠かせない食材で、コメに次ぐ重要作物だ。チェンセン港の市場では、中国産はタイ産の半値。太刀打ちできない。同港の近くでニンニクを栽培するソー・セユンタムさん(50)は「香りや味は負けない」と言い切る。しかし、タイ全土の作付面積は協定後、七割減って八千ヘクタールに縮小した。40%の関税が撤廃されたニンジンも輸入が激増。北部のメーホンソン県では二百戸の産地が栽培をやめた。

タイ米を緊急輸入するに大騒ぎした国が、そのタイですら太刀打ちできない国なんかともFTA結んだ日にはどうなるんでしょうか…想像できません><

>タイと日本の経済連携協定(EPA)が、今秋にも発効する。「日本は工業製品、タイは農産品の輸出を増やすチャンス」と、農業・協同組合省のナンバー3、ピニット・コルシポン監察官(57)。では、日本農業への影響をどう考えているのか。「日本で、総世帯の約4%の農家を守る必要性がありますか」。それが答えだった。(5.18)

日本「国」のことなど微塵も考えていない大企業さまにとっては工業製品輸出の障壁が取り払えるなら、日本の農家ぐらい喜んで生贄に差し出すでしょうね。

【参考】
http://newmoon1.bblog.jp/entry/368729/ (日豪EPA)
http://newmoon1.bblog.jp/entry/378161/ (韓米FTA纏め)
http://newmoon1.bblog.jp/entry/387893/ (民主党勝因)
http://newmoon1.bblog.jp/daily/2007-10-7/ (民主党ビラ)


「LEGEND OF BASARA」第3話

実は原作は既読でもアニメ版は未視聴だったので結構楽しみにしていました。


「もやしもん」第2話

ふつー。つまらなくはないけれどだからどうかといわれたら困る作品。


「逮捕しちゃうぞ フルスロットル」第3話

主役二人の作画は頑張っているけれどいかんせん、話のセンスがなんというか平板というか。。アクションシーンがあるのに全然はらはらできないよ!


Comments
はてなダイアラーさん、はじめまして、ありがとうございます。

>朝日だけ確認できてません。だれが書いたんでしょうかね?

「社会面に松葉一清の評伝と磯崎新の短いコメント、 文化面に鈴木博之の追悼文」だったらしいです(自分で読んでいないのでなんともいえませんが)。
commented by 遊鬱◆jnhN514s
posted at 2007/10/21 00:32
nobさん、こんばん(ノД`)シクシク

本当に知れば知るほどにその偉大さにうたれますよね…。それだけに最後に日本のために命を捧げたいと語られたその言葉通りに殉ざれたという、そのことにまた。。二言目には命をかけるとか言う政治家は山のようにいますが、どうして黒川党首が・・嗚呼!!!!!!!!!

しかし、いい追悼文ですね。何度も何度も読み返させていただいています、ありがとうございます。

>鈴木謙介さんのコラムもあったので近いうちにメモしますね。

つい先だってきちんと正面から斬りつけて、私の鈴木評価に対する鈴木本人からのお墨付きを頂き、鮮やかな勝利宣言したばかりなんですが、まだヤレと?(苦笑)…嘘です、楽しみにしています。
commented by 遊鬱◆jnhN514s
posted at 2007/10/21 00:08
はてなダイアラーさん、ありがとうございます。
新聞社の名前、抜けているの気づきませんでした。
2007年10月16日付けの読売新聞朝刊です。
commented by nob
posted at 2007/10/20 01:23
馬場璋造の追悼文、読売でしたよね。日経が飯島洋一、毎日が鈴木博之だったんですが、朝日だけ確認できてません。だれが書いたんでしょうかね?
commented by はてなダイアラー
posted at 2007/10/20 00:40
遊鬱さん、こんばんは。

黒川さんの追悼記事があったのでメモします。

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2007年10月16日(火曜日)文化17面

黒川紀章さんを悼む 馬場璋造

共生の思想 芸術にまで昇華

 黒川紀章さんの訃報を電話で聞き、一瞬絶句した。半月前、気の置けない仲間が集まり、一夕歓談したばかりである。頬がやせていたが顔の色艶もよく、小型ジェット機のカタログを持ってきて、これを買い操縦も習うのだと、にこやかに話す言葉には生気があった。

 建築家は思想、理論、表現に優れていなければ一流にはなれない。黒川さんはそのいずれにも天稟の資質を見せていた。そしてその才能を磨く努力も、人の数倍も不断に行っていた。表には見せない努力である。1960年に日本で開催された世界デザイン会議に際して結成された新鋭の建築家やデザイナーのグループ「メタボリズム」に最年少で参加し、一挙に頭角を現した時は、まだ東大大学院丹下健三研究室に在籍中であった。

 一貫して「共生の思想」を説き、さらに「21世紀は機械の時代から生命の時代へ」で思想の展開を図り、数十色もの色があるという「利休ねずみ」を例に「中間領域論」を掲げて、白黒を明確にする近代建築に対する理論的挑戦を行った。そしてポストモダニズム、アブストラクト・シンボリズム、フラクタル、緑の回廊へと理論は転化していくが、いずれも共生の思想に基づき、時代とともに進展していったものである。

 またその表現は思想と理論をみごとに具現化しており、建築芸術の域に昇華している。

 妥協を許さない建築家としての姿勢と明快な言説は、建築界ではむしろ煙たがられていたと言ってもよい。黒川さんの視線は、建築界ではなく社会に向いていたのである。しかし海外では率直にその才能を高く評価した。コンペ案がいずれも高く評価され、数々の建築が実現し、共生の思想は世界各国の都市設計に生かされつつある。

 国内でも日本建築学会賞、日本芸術院賞、日本芸術院会員、文化功労者と頂点を極めたが、いずれもその活躍に比しては遅かったといえよう。海外での受賞歴はより華やかであった。

 1998年には「黒川紀章回顧展」がパリにはじまり、ロンドン、ベルリン、シカゴと回り、アムステルダムでは黒川さん設計の「ゴッホ美術館新館」で行われた。同展に協力した私も最初と最後に同行したが、いずれも大好評で、ゴッホ美術館新館には女王殿下がオープニングに行幸され、会期中、入館者が40万人あった。床一面に無数のスケッチが敷き詰められ、大小の模型を主体とした展示は、それまでにない斬新なものであった。

 黒川さんとは建築関係以外に、日本文化デザイン会議と日本景観学会の創設にごいっしょしたが、無から有を生み出す際の創意と慧眼はすぐれた建築家ならではのものであった。また黒川さんの眼はつねに遠くを見ていた。最後にお会いした時にジェット機購入の話をしていたのも、まだまだやりたいことが多い、という意志の表れであったろう。途半ばでの逝去は本当に残念でならない。心からご冥福をお祈りしたい。
(建築評論家、日本景観学会副会長)

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今更ですが、すごい人だったんですね本当に。

他にも鈴木謙介さんのコラムもあったので近いうちにメモしますね。ちなみに初音ミクに関するコラムです。
commented by nob
posted at 2007/10/20 00:25