黒川紀章氏お別れの会~バロックな愛~ | あざみの効用

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或いは共生新党残党が棲まう地

『メタ・モダンの思想は流動的で軽い、新しい時代の「遊動民(ノマド)」の思想を構築するのである。つまり、これまでのような「定住(モナド)社会」であれば、人々はある領土に分かれて住み、互いに干渉しあうことのない境界、または緩衝地帯を作ることによって対立を防ぐ。この場合、平和の原理は互いに相手の内部ルールに干渉せず、境界を侵さず、閉鎖社会を形成することにある。すなわち保護社会の共存する世界である。

 東京に引き継がれた共生は決してブロック化しないこと。先端的なビルの近くにある歴史的な建物。間、間や隅にはこぢんまりと住居が共存、雑居、曖昧・・・。だから活力も人間味も生まれる。』

                   黒川紀章「ノマドの時代」


若尾文子さん「実感わかない」…黒川紀章氏お別れの会
>10月12日に73歳で亡くなった建築家黒川紀章さんのお別れの会が15日午後、東京都港区の青山葬儀所で開かれ、ゆかりのあった建築界や政財界の関係者ら約2000人が出席し、最後の別れを惜しんだ。

>妻で女優の若尾文子さんは、お別れの会が始まる前に「うちにいても、どこにいても、日がたつにつれて、だんだんと黒川の存在が大きくなってくる。亡くなったという実感がわかない」と心境を語った。会では「建築家黒川紀章の名前を1日でも長く皆さまの記憶にとどめていただけたら、これ以上の喜びはございません」と出席者に涙声であいさつした。

。・゚・(ノД`)・゚・。黒川党首は、生涯私の支持政党の党首です!

>祭壇にはスーツ姿の黒川さんの遺影が飾られ、建築家磯崎新さんが「あなたの生身の体は消えてしまったが、メディアの中での仕事とイメージと構想はずっと生き残る。ほかに例のない、これからも現れてこないユニークな建築家として名前を残すだろう」と業績をたたえた。(2007年11月15日 スポーツ報知)

なんだかんだいってもう磯崎さんしか残っていないよね…。


【追悼・黒川紀章氏】率先して建築制度改革に対する意見表明も試みる
準備不足のまま施行に突き進んだ改正建築基準法は、建築生産システムに混乱をもたらした。建築確認業務の停滞によって経営などに不安を抱え始めた建築実務者からは、改正建基法に伴う厳格な審査や手続きに対する不満の声が高まっている。

新築着工件数が激減というか壊滅状態にあることは既にメモ済であります。

>国土交通省が中心となって進めてきた制度改正の議論では、主に建築関連の団体の代表者から意見が聴取されてきた。一方、建築界で発言力を持つ著名な建築家個人としての発言はあまり聞こえてこなかった。そのなかで、黒川紀章氏は2005年12月16日、当時の国土交通大臣であった北側一雄氏に対して意見書を提出。制度改正について、建築家としての姿勢を示した。

都知事選のときに教育問題に関して、ほかの候補者がぐだぐだ言っていることに対して、「私は前から言っていますよ」とあっさり述べておられた姿を思い出しました。。。

>黒川氏が意見書で示した要望は4項目ある。一つ目は構造や設備を含めて総合的に設計上の責任を果たす設計事務所(建築家)の役割を、いわゆる「意匠建築士」のように狭い役割に限定しないでほしいというものだ。次に一級建築士事務所の登録制を許可制にして、その代表者を一級建築士に限定すべきという考えを示した。許可条件として保険加入の有無や代表者の経験などを重視すべきだとみたのだ。そして、構造や設備の専門事務所は「一級建築士構造事務所」、「一級建築士設備事務所」という名称で免許を交付すべきだと主張。総合的な調整を図る「一級建築士設計事務所」とは異なる位置付けが必要だという姿勢を明確にした。建築士事務所の許可制という考えは、2007年4月の東京都知事選挙で掲げた公約にも盛り込んだ

>続いて、確認業務の改善策を提示した。黒川氏は確認業務を民営化する方向性については適切だと評価。そのうえで、確認業務を都市計画や防災、景観、環境などを取り扱う「設計」と、構造形式や耐震強度、耐風強度などを扱う「構造」、機械や空調、電気などを扱う「設備」の各分野に分けて、実務経験者による確認が可能な体制が必要だと提言した。最後に、経済成長を優先するあまり、建築をコスト競争の原理に追い込んだ姿勢を見直す必要性を指摘した。

こういう地味な政策を専門家としてきちんと公約に盛り込まれていました。参院選でも地震が起きて各党が選挙対策で乗り込む前に、当初から地震対策をマニフェストにいの一番にいれておられました…。

>四つの提案を掲げるとともに、黒川氏は姉歯秀次・元一級建築士による構造計算書の偽造事件について、自らを含めた建築家自身の問題としてとらえていると表明した。そのうえで、建築文化の創造には総合的な観点での建築設計が重要だという点を強調した。(日経BP 10.16)

他人事なのに、他人事とせず責任を引き受ける、これぞ真の強者です。


「建築家、黒川紀章 47年間の業績を振り返る」(R25 11.15)
>黒川氏の建築スタイルとは、いったいどのようなものだったのだろうか?

>「その鍵となるコンセプトに、メタボリズム(新陳代謝)と共生の2つがあります」と、東海大学工学部建築学科の吉松秀樹教授が語ってくれた。「メタボリズムとは、生物の細胞は新しく生まれ変わり続けるという概念を、都市や建築に生かした理論。増築を念頭に設計された大阪の国立民族学博物館がまさにそうですね。60年代に日本独自の建築運動として世界に向けて発信されました」(同)これは建物は同じかたちで存在し続けるという常識を打ち破った作品だ。

>では、もう一つの共生とは?「こちらは、プライベートとパブリックという2つの異なる空間の中間に、日本固有の”道空間”を設けるアイデアが発端です。西欧では広場がコミュニケーションの場ですが、日本では道空間がこれに当たると考え、博多の福岡銀行本店や高田馬場のBIGBOXなどに取り入れました」そのねらいは建物内部や入り口に都市的なスペースを作り公共性を高めるものだ。

大好きな雑誌が、大好きな方についての素敵な記事を載せてくれる…嬉しい限りです(ノД`)シクシク

>「黒川さんの素晴らしいところは、建築単体のデザインだけではなく、常にその周囲、都市や地域全体を考えた視野の広さです。だからこそ晩年は政界に興味を持たれたのではないでしょうか

なにせ「都市」設計ですから、デフォで視野の広さが違います。

黒川紀章氏の主な建築作品

国立新美術館
六本木に今年オープンしたばかりの日本最大級の美術館。波打つガラス壁面が特徴的。複数の展示をスムーズに行えるようにと、作品搬出入など機能面も重視している

中銀カプセルタワービル
各部屋が交換可能なカプセルによって成り立っており、メタボリズム(新陳代謝)を念頭に置いた建築理念が表現されている。一方で内装は近未来のSF映画を感じさせる。

国立民族学博物館
大学と博物館を一体化させ、博物館の新しいかたちを提示した。増築を前提に作られ、後日そのコンセプトどおりに増築された。第19回毎日芸術賞を受賞。

福岡銀行本店
共生をコンセプトに地上12階建て、箱形の鉄筋コンクリート造りの建物をくりぬくように、巨大な軒下空間を設置。その中間的なスペースはコミュニケーションの場として機能。

・''和歌山県県立近代美術館・博物館
1994年にオープンした両館はデッキによって結ばれ、伝統的な建築様式を盛り込みながら現代との共生を意図している。イタリア自然石賞特別賞を受賞。

国立新美術館については他の建物の上層階から、その波打ち方を何度も何度も眺めてはそのたびに感慨に浸らせていただいております。


以下 若尾文子(女優)特別手記「黒川紀章とのバロックな愛」(本当は何かしら感想を付そうと思ったのですが無理でした。画面が涙で曇ってよく見えません…強調した部分は、その…溢れ出た部分です、本当に、本当に素敵な文章です。)

文藝春秋12月号「惜別手記 黒川紀章とのバロックな愛」

>今はなるべく、黒川を思い出すまいとしています。亡くなったのがあまりに急でしたし、しばらくは密葬や告別式でとにかく忙しかったのが幸いして、なにかを考える暇もありませんでした。いちだんらくしてからは、マンションの中の茶室に、四十九日までお骨を祀ってあります。昼間はお線香をあげに来てくださる方がいますが、夕方にお手伝いさんも帰り、あとはずっと私ひとり。家の中すべてに黒川の面影があるので、思い出さないようにしないと、さみしくて、堪えられなくて・・・・。

(中略)

>亡くなってすぐ、宮内庁の侍従長さんからお電話があって、天皇皇后両陛下が驚き悲しまれているとお伝えくださるとともに、「周りの方は健康に留意してください」というお言葉がありました。本当にありがたいことだと思います。

(中略)

>黒川は不思議な人で、気に入ったものはたくさん買う癖がありました。靴だったら、私ならせいぜい一足、むしろ違うものを買うほうが楽しいけれど、彼は似たような靴を何十足も買うんです。履くのは一度に一足なのに。忙しすぎて、次にいつ気に入るものに出会えるか、わからないからかもしれませんね。新品のままの洋服やネクタイが、お店をひらいても売り切れないほどあるけれど、サイズが違うと形見分けもできないし、困ったなあと。そんなことを悩んでいる時間のほうが、気がまぎれます。


>十月十二日朝に亡くなる数時間前までは、まさか、まさか息を引き取るなんて夢にも思っていませんでした。実は去年の夏、黒川は内臓が癒着するという、橋本龍太郎元総理と同じような病気で手術を受けていました。消化器系が正常になるには二年はかかると言われ、一生懸命食べても半分も消化しないので、ずいぶんと痩せてしまいました。だから九日に検査入院したこと自体は珍しくないのですが、黒川はいつも仕事が気にかかっていて、あの日も、病院へ留めておくのが難しかった。でも熱があって、お医者さんは大事を取って入院したほうが安全だというので、眠り薬をちゃんと打って、半分騙すように入院してもらいました。

>翌日の十日に、たまたま、お医者さんも看護婦さんも、秘書たちも病室にいなくて、黒川と二人きりの時間がおとずれました。いい機会だと思って、普段、気になっていたことを聞いたんです。結婚して三十年近く、自分では妻としてちゃんとやってきたつもりだけど、お互いの思いが食い違ったこともあるかもしれない。彼は私にたくさんの幸せをくれたけれど、私は幸せにしてあげられなかったかもしれない。そんな思いが絶えずあって、でもうまく言葉に言い表せなくて、こう訊ねました。

「私、あんまりいい奥さんじゃなかったわね」

 そうしたら思いがけず、たいへん力強い答えが返ってきました。

「そんなこと・・・・・そんなこと、そんなこと。本当に、好きだったんだから」

 ベッドで横になった黒川が、「そんなバカな」という調子で否定してくれたのは、忘れられません。でも、よかったなあと思っただけでした。死ぬなんて、思いもしませんでしたから。

(中略)

>結局、黒川と会話できたのは、あれが最後になりました。その晩、ずっと側についていましたけれど、息を引き取る瞬間は実感がありません。映画では臨終のシーンも撮影したことありますが、実際はあんなふうではないですね。手を触ってても急に冷たくはならないし、顔もあたたかくて柔らかいし。ただ、そんなに苦しまなかった。あの人は、なんだかんだ言っても生前の行いがよかったんだと思います。苦しまないで死ねたわけだし、彼の娘も息子も、みんなそばにいましたから。

>中国人の優秀な秘書がいるんですが、彼女は中国出張で間に合わなかったんです。「お医者さんが大丈夫と言ったから出張したのに」と号泣しました。私はみんなの前で一度も涙を見せていません。娘はとにかく嘆き悲しんでいるけれど、私はそばにいて涙を流すより、むしろ何かやるべきことをしたり、荷物を整理したり、私は一人で・・・・・・まだ、少しは生きますから。黒川をなくしたあとの、そういう気持ちとつきあっていく時間は、これからが長いですから


>建築家と女優というと、どちらも華やかな世界と思われがちですけれど、黒川に出会うまで、私はまつたく違う世界に住んでいました。高校を出てすぐこの仕事を始めた私は、極端に社交性がなくて、ただひたすら目の前の仕事にとりくむという不器用な生き方だったんです。猫みたいに、狭いテリトリーにこもっていれば安心でした。だから人生のすべてを、黒川に出会ってから教えられました。教える教えられるというと、なにか厭らしく聞こえるかもしれませんが、私は黒川と結婚することによって、それまでとまったく違う人生を経験したんです。

>たとえば小さなことですけれど、私は鳥をみて可愛いと思ったり、樹木があると気持ちいいと思っても、なんという名前か関心もないし、それ以上に感じようとはしなかった。彼が何でも知っていて、教えてくれることが驚きでした

(中略)

>結婚して日記をつけるようになったのも、彼の影響です。世界の名画とノートが見開きになった立派な日記帳をIBMから暮れにいただいて、黒川は忙しくて日記なんてつけないのに、私には「日記は年とってから記憶の助けにもなるし、書いてみたら」と言うので、しごく従順にはじめたんです。ところが最初の日を書いて、次の日に「前と同じ」って書いたら大笑いされました。こんな日記見たことないって

(中略)

>黒川と私のふたりの日々の、かけがえのない記録です。残念なことに二年前にその日記帳がなくなって、書くのをやめてしまいましたが、もし長生きして、すこし気持ちに余裕が出たら、まとめて読んでみようかと思います。今はまだ見るのも辛くて、物陰に二十数冊、積み重ねたままですが。


>黒川と出会ったのは1976年、『すばらしき仲間』というテレビ番組の対談で、ふたりとも四十代でした。彼が私を指名したそうですが、建築家なんて会ったこともないし、何話したらいいのかなと心配で。

(中略)

>どうやって、私の話を引き出そうとか、前もっていろいろ考えてきた感じで、好感が持てました。このとき黒川が「君はバロックのようだ」と讃えたとか、面白おかしく伝わっていますけれど、本当は違うんです。彼は建築について説明して、西洋の考えた方は白黒はっきりしているが、東洋には中間の曖昧な領域がある。ところが、西洋でもバロックには不定形な美があり、女性的だと教えてくれたんです。そして私には特にそういう、白とか黒とかはっきりしない曖昧な余韻を感じると。たしかに女性には「イエス」と「ノー」が同時に存在しますよね。だから女性全体について言ったわけで、私がバロックのようだという意味ではないんです。

>今年の初め、六本木の国立美術館が完成した時のシンポジウムでも、「バロックの美」だとか言われまして、「それは私のことじゃありません」と訂正しました。黒川はいつもの軽い調子で「いやいや、僕はあなたがバロックというつもりだった」と笑っていましたけれど。

(中略)

>おつきあいし始めたときは、私は離婚してひとりでしたが、彼は奥さんもお子さんもいて別居中でしたから、大手を振ってというわけにはいかないし、いろいろ書かれもしました。83年の入籍まで7年ほど、いつかは結婚しようと黒川は思っていたみたいですが、私は、自分がどうにかできる事柄じゃないし、結婚しなくても構わないと思っていました。結婚を迫るそぶりを見せたこともないから、全て黒川の意思ですね。再婚したときは、ふたりとも50歳近かった。私って、自分がこうありたい、という枠がないんです。ただ、仕事はしたかった。仕事さえあればいいんです。だから黒川の仕事も大事で、彼が私といるためにまずい立場になったり、仕事に影響が出るのだけは絶対に嫌でした。

>とにかく私に対しては大変に誠実で、私によかれと思うことを熱心に、有形無形の愛情を注いでくれました。私の仕事をいつも支えてくれたし、二人で会えるように山中湖に別荘をつくったり。

(中略)

>スイスで、日本にまだなかった、コンピュータ付きのエアロバイクをいち早く見つけて買ってくれたんです。私は体が弱くて、健康にすごく関心がありましたから、ひとたび決めたら毎日忠実に漕ぎますから、それから三台くらい取り替えて、その機会が製造中止になった今はアメリカのエアロバイクですけれど、おかげで元気で、体重も増えないでいます。しかも彼は、自転車だけでいいのに、ステップを踏む機械と、ボート漕ぎみたいな男性用のマシンまでスイスから取り寄せてしまうんです。黒川自身は運動する時間もないし、やる気も全然ないんですよ。今のマンションを建てるときに、ジャグジーやサウナを付けたのも、すべて私のためです

(中略)

>黒川と一緒になってからずっと、朝食は毎日からかならず私がつくりました。彼は忙しくてお昼はまともに食べられないし、夜は会食があったり、仕事が終わる時間も不規則でしょう。だからわが家では、朝食がふつうの家の夕食みたいなもの。彼は和食党だから、ご飯か朝粥に、お味噌汁、それから魚や肉のおかずと野菜の煮物など、毎日献立を変えて。舞台の仕事が入っている日も、どれだけ早起きしても、朝食だけはかならずつくると決めていました

>面と向かって「おいしい」なんて言いません。「まずい」とも言わない。手をつけない場合は、ああ、これはあまり好きじゃないんだな、と察して出さないようにしていました。私なりの真剣勝負です。一年ほど前に、共通の知り合いから「黒川さんが『奥さん、僕のために朝食をつくるの大変なんだ』と言ってたよ」と聞いて、ああ、そんなふうに思ってくれるんだなあ、と。

(中略)

>黒川には、私の服を見立ててもらうこともありました。とくに海外出張では、パリの街を散歩してシャネルなんか眺めているうちに、いいなあと思う服を見つけても、選ぶことができない。私としては「建築家・黒川紀章」が納得してくれるものを着ていたいわけです。

(中略)

>心残りはたくさんあるけれど、ひとつはお正月。今年のお正月はロシアで迎えたんです。いつも新年は出張しないんですが、ペテルブルクでプーチンさんがつくっているサッカー場を手がけているので。黒川は、お雑煮とおせちで、伝統的なお正月をするのが好きでした。お雑煮は、愛知県の黒川家の味で、お澄ましに、焼いたお餅と、しんとり菜という青菜を茹でて入れて、鰹節をたっぷりかけます。しんとり菜は、東京ではよほど頼んでおかないと手に入らないから、毎年暮れに四日分ぐらいたっぷり注文して。黒川に「来年のお正月は東京でしますか?」と言ったら、「いいねぇ」と喜んでね。二年ぶりにお雑煮もつくろう、おせちも頼んで、彼の好物の田作りをこしらえて・・・・・と思ってました。それが叶わないのは、残念なことのひとつですね。

(中略)

>建築の仕事ではある程度、功成り名を遂げた。だから残る人生を別なこと、政治という、彼が真剣に行く末を憂いているものに、身を投じてみようとしたんじゃないでしょうか。その思いを、私はそのまま受け止めました。そりゃあ、政治が好きか、政治に関わりたいかと聞かれれば、決して好きとは言いません、私は。だけど夫である黒川が、自分の人生の残りを政治に投じたい、キザな言い方をすれば、自分の生命を捧げようと思っているんだったら、それはそれでやるべきだと思う。それだけです。それ以上でも以下でもない。

(中略)

本音をいえば、好きじゃないです、選挙なんて。でも黒川を当選させるために、立候補しようとしたわけでもないんです。はっきり言って、そこまで楽観的に考えていない。政治というものはすごいエネルギーがいりますから、七十歳越した人が通るわけがないんです。それは黒川本人も、よく分かっていたと思う。だけど、それと、選挙をやるということとは別ですから。多少でも一石を投じることになれば、との思いもあったのでしょう

彼の言動がテレビで面白おかしく取り上げられるのも、承知でやっていたんじゃないでしょうか。でもテレビに慣れていないから、彼らのやり方に過剰に乗ってしまう。私は、そんなに乗ってあげることないのにと思ってました。彼の建築家としてのキャリアが脇にやられてしまうような風潮が、悔しかったんです

>選挙活動でもわかるように、たしかにあまり型にはまらない人です。都知事選の投票日にパリにいたのは本当は仕事のためで、「誕生日だから」と言ったのは、彼独特のユーモアだったけど、あまり伝わらなかったですね。わりとひょうきんで、家庭でも冗談をいいますよ。だけど、根っこのところは、けっしてふざける人ではなかった

>彼は、人の役に立つことで、自分がやったほうがいいと思えば、何をおいてもやる人です。実を言うと、ボランティアで引き受けている仕事がたくさんあります。ロンドンで手がけている病院も、黒川の友人のイギリス人の教授が、若くしてガンで亡くなった妻のマギーさんのために建てるというので、喜んで無償で設計していました。「9・11」で亡くなった子どもの霊を弔うための、アフガニスタンの子どもの家もボランティアです。忙しくなるし、社員も派遣しなきゃならないし、出費もそうとう嵩みます。でも、そういう人だから、仕方がない。

選挙だって、ボランティアの設計だって、うちのマンションの管理組合だって、自分がやるべきだと思ったから、当たり前のようにやるんです。人の倍ぐらいの人生を生きていましたよ。土日なんて、休んだのを見たことないですもの。


>都知事選の頃に別居していると報道されましたが、お腹を切った手術後でしたし、その後すぐロシアへ行ったりして、体調がすごく弱まっていた。彼としては自分の体も大変だし、選挙で私に大変な思いをさせて体でも壊したら大変と、両方あって、自宅の近くのホテルに部屋を取っていたんです。

(中略)

>黒川が選挙に出たのは、もはや最期の命と覚悟したからでは、と訊かれます。いくら夫婦でも、相手のお腹の中の奥の奥までは分からないし、そういう思いも何分の一かはあったかもしれない。でも、私には、そんな素振りは見せませんでした。万が一、黒川の死期を私が感じたら、ガタガタになりますもの。

(中略)

>一番うれしかったのは、亡くなった後に、先輩やお友達が、黒川の今までの仕事を褒めてくださったこと。新聞にも業績が大きく書かれて、こんなに皆さんが認めてくださると思いませんでした。人は棺に蓋をされてはじめて評価が定まるといいますから、黒川にとって本当に素晴らしいことです。

>黒川は冗談半分に、私と結婚する理由を「自分が死んだ後、お墓参りに来てくれそうだから」とつねづね言っていたんです。愛知県の蟹江町に黒川家先祖代々のお墓もあるんですが、数年前に「東京でお墓を買ったよ」と報告されました。

(中略)

>東京で弔ってもらいたい、というのが最大の遺言だった。しょっちゅうお墓に来て、そばにいてほしかったんですね。

(中略)

>黒川と結婚を決意したのも「私がいなかったら、すぐ病気になってしまう」と思ったから。彼は自分だけで健康管理なんか絶対できませんから、きっと仕事に打ち込んで滅茶苦茶な生活で、もっと早く死んでいましたよ。これは私の自負です。とっても儚い自負ですけれど


>私はほんとうに「建築家・黒川紀章」の名前が大事だった。なぜなら、黒川がそれをすごく欲していたから。私はそれを支えようとしたけども、でも案外、そんなこと一切お構いなしに、ただただ頼りない、甘ったれるだけの奥さんのほうが幸せだったかな、という気もどこかにあったんです。でも一人で両方ってわけにはいかないでしょう。だから、私は果たして幸せにしてあげられたかなあと心配になって、「私、あんまりいい奥さんじゃなかったわね」と訊いたんです。たとえ「幸せじゃなかった」と言われても、しかたがないと思ってました。でも、とにかく私はこのやり方しかできなかったし、この妻でしかありえなかった。彼が本心でどう思っていたにしろ、これでよしとしなければいけませんね。

(中略)

>尽くしていると言われると、とても複雑な気持ちなんです。私は別に無理して尽くしているわけでも何でもなく、「建築家・黒川紀章」という人生を全うしてほしかっただけ。私から見ると、黒川はそういう人なの。自然に、なにかをしてあげたくなる人だったんです。

>数年前、残間里江子さんに「若尾さんは黒川さんのことを尊敬しているのね。だから、多少のことがあっても、ちっとも揺るがないのよ」と言われました。自分では、そんなこと全然気がつかなかったけれど、言われてみると、確かに尊敬なのかもしれない。もちろん愛情も含めての尊敬です。だから、あの人が仕事で苦しんだり、誰かに辛い思いをさせられると、私はすごく敏感に反応して、激しく相手を憎みもしました。それはお役所であったり、マスコミであったり。自分のことだと、そんな激しい部分はないんですけどね

>黒川もやっぱり、私のことは何があっても全身で庇護しよう、という気はあったと思う。私も同じです。女だけれども、世間のいろんなことから黒川を守ってあげたいという気持ちは、出会った時から、ずっとずっと持っていました。だから、選挙に私が出馬したのも、ごく自然なこと。黒川がそれをもし望むならば、そして、少しでもそれが役に立つなら、必然なんです。

>変わった夫婦でしょうか。世間から見るとよく分からないですよね。でも、他人からどう見られても構わない、そんなこと



はっきり言えることは、黒川と過ごしたこの三十年間、夫婦の危機なんて一度もなかった。もし周りの人すべてに離婚しろと言われても、「いいえ、私たちは死が二人を分かつまで離れません」と言ったでしょう。いま、そのお別れの時がきました。さようなら、そしてありがとう。私に人生のすべてを教えてくれた人