本日発売のクラナドサウンドトラック を聴きながら…(凄いな今月オタク関連の出費が10万超えたかも_| ̄|○)
皆が待ち焦がれたKey待望の新作であった「クラナド」は昨年初めに発売された。そしてその過剰な期待を裏切らないどころかより一層の高みを目指した傑作であったというところは衆目一致するところだと思う。
その詳細な内容については語るべく類のものではないと思う。実際にプレイして感ずることが総てだからだ(しかし、ハイパーリアリティだとか動物化うんうんの文脈で語ることだけは絶対に違うと断言できる)。
それまでもファンを二分する争いがあったが、前作「Air」でほぼ鮮明になっていた性交描写を切り捨て完全に「エロゲー」の範疇から離脱した。
それが良いか、悪いかはともかくとしてその目指すところは、純粋に物語だけを看板に掲げ、プレイヤーに何かを伝えたいというクリエイター意識をもった一つの清々しい姿勢といえる。では、賛否両論ある性交を完全に捨ててまで物語だけで勝負したかった、伝えたかったことはなんだったのだろうか?
それは物語としてみれば、多層的な「愛」のカタチであったと思う。とりわけ今回は「街」の意思が主役であった以上、友情、姉妹愛、親子愛、師弟愛、そして男女の恋愛と総てを同じ重さで描ききっている。それは前作が結局のところ描きたかったのは親子愛であったに関わらず、中途半端に恋愛要素を組み合わせた結果そのエピローグにおいて綺麗な収束感を得られなかったことと比べれば大正解だったと思う。
ただ、私が涙したのは単純に物語の美しさにだけではなかった。基本的に「ギャルゲー」は現実を切り離し、その世界での美しさと戯れる物語であるのに、「クラナド」は違う。それは幻想世界を中核にしたものであると同時に、プレイヤーを現実へと促す世界を紡いでいる。
涙したのは、プレイヤーがどんなに望もうとも決して主人公のような生き方は選択できないからだ。それはもう高校生を過ぎた、時は元に戻らないという意味ではない。たとえ時を戻すことができたとしても、手に入れることはできない生き方だからだ。
本作における主人公はいわゆるオールマイティーではない、それどころか現実社会においては典型的な「負け組み」である。そのような社会的眼差しとは別に主人公は幸せ(=愛)を手に入れている(それも奇跡としてではなく)。
この「街」に溢れる愛はかつてどれも血を吐くほど望んだ「愛」だ。しかし、現実においてそのような愛はない。しかし、その愛は身近にあるように思わせる、あるいはあると信じたい「愛」だ。そう一度はその愛の存在を信じ、求め、諦念した「愛」なんだ。その「愛」を獲得する世界を旅することでかつての自分と向き合い、そして自分が断念したものを想い涙するんだ。
それはお金があるとか、容姿が優れているとか、知性に溢れているとかそのようなものとは関係ない「愛」だ。まさに「運」でしかない、出会える人は出会えるし出会えない人は出会えない、それだけのこと。
>『我々はどこから生まれてきたか、愛から。我々はいかにして滅ぶか、愛なきため。我々は何によって自己に打ち克つか、愛によって。我々も愛を見出しうるか、愛によって。長い間泣かずに済むのは何によるか、愛による。我々をたえず結びつけるのは何か、愛である。』
ゲーテ「シュタイン夫人へ」
- toppoiさん、こんにちわー。
「つよきす」への過大な期待から「君ある」で刻の涙を見たので発売日が決定した某ソフトについても直前まで忘れておいて、勝手にwktkしてハードル上げないことにしています。
ある種の完成度の高いソフトを出してしまうと、リーフにしてもKeyにしてもタイプムーンにしても次回作へのハードルはその傑作が比較作品になるし、逆に言うと傑作というのはその会社のメインライターの集大成というか溜め込んだものを総て吐き出しているんだからキツイよねと正直思います。
>あ、リトルバスターズは本格的に鍵の終焉を思わせる出来でしたよ。
おかげさまで感想読んで手を出さずに済んでます(苦笑)。一度地雷踏んだソフト会社に対しては二の足踏んでしまいます。
あと、せっかくなのでクラナドについてもう少し個人的な思いの丈を吐き出してしまいます(とっくに沈んだエントリーだしネタバレもないと思うので)。
クラナドは残酷なゲームだったと思います。それは上記のとおりなのですが、「永遠」「奇跡」「輪廻」でもなんでもいいですが、特別な力が個人に付与されていたのがそれまでの作品群であって、しかも最後その特別な力で必ずしも幸せになれたか(もちろん幸せになったと考えられる個別シナリオはありましたが)どうかについてメインシナリオについてはかなり判断がわかれるところだったと思います。
ひきかえ、クラナドは完璧に「幸福」を手に入れています。それも特別な力による「幸福」ではない、ごくごくありふれていると思われる幸福です(その意味で続編でまた特殊設定に逃げ込んだのには唖然としてしまったのですが)。おそらく、それは主役を人から街にすることで初めてできたことだと思います。
街が「愛」に包まれることで街が「愛」に応えてくれるという奇跡ではなく当たり前のことを示して見せたという結論…、その「愛」のひとつひとつをゲームを通して見せ付けられていくという経験(おそらくそのような「愛」そのものは未経験としても掠めるぐらいの経験は誰にでもあるはず・・)それが否応なく涙を流させるのだと思います(←個人的経験の一般化orz)。つまり、現実は「愛」に包まれていない殺伐とした街に生きているとしても、「愛」さえあれば「クラナド」の街はすぐ隣に存在していると信じられる街そのようなメッセージが篭められていると感じます。
私は、一ノ瀬 ことみシナリオラストにおいて、両親からのメッセージがこめられたカバンが届いた、そのことの意味を思うと・・こうコメントを書いていても泣いています(ノД`)シクシク
街のみならず世界は「愛」に溢れていることを信じてほしいと、だからこそ「カバン」がことみのもとに届くことを信じてメッセージを篭めて残したわけです。届くことそのこと自体がメッセージを証明するものとして、「愛」さえあれば「奇跡」は必要ないのです。 - commented by 遊鬱◆jnhN514s
- posted at 2007/09/16 12:01
- こんばんは。コメントどうもでした~。
>クラナドはひとつの到達点だと思います
私もそう思います!業界全体でも2004年が到達点だったんじゃあないでしょうか。2005年は…。
「街」今度やってみますね!実は買って積んであるんですけど、プレステを「久遠の絆」がずっと塞いでるんですよ。いや~、タイムラグが出るプレイ環境(テレビチューナー+パソコン)のせいで、あのちょこまか動き回る餓鬼がどうしても倒せなくて\(^o^)/ですよ(笑)。
あ、リトルバスターズは本格的に鍵の終焉を思わせる出来でしたよ。いやもう、新人ライター担当の個別パートが壊滅的でしてね~。ほとんどがWebノベルのレベルでしたorz。これで麻枝が隠居するのかと思うと…。 - commented by toppoi
- posted at 2007/09/15 02:49