朝一番に目にした訃報。
堅田喜三久氏の訃報であった。
お囃子の手ほどきは堅田流であった。やっと初舞台を踏んでという時に、前の師匠は旅立ってしまった。
あまりの悲しさに、大好きだったお囃子を諦めていたけれど、約十年の月日の経過で「もう一度お囃子をやりたい」と言う気持ちになった。そして今の師匠に師事する事になった。そして私は藤舎流になった。
前の師匠と喜三久氏は同い年であった。「やっちゃん」「まあちゃん」という呼び合うような幼馴染であったようだ。
同い年だったので、どこかでライバル心を抱いていたのかも知れない。前師匠はどちらかというと先代の朴清氏との思い出話が多かったように思う。前師匠は大皮の名手であった。先代の朴清氏や喜三久氏といかに切磋琢磨の演奏をして来たか話してくれた。
前師匠と先代の朴清氏とのカップリングでの演奏はあまり覚えがない。しかし、喜三久氏との演奏は何回も耳にしている。
聴き応えのある、命のこもった演奏で素敵だった。
前師匠が亡くなった時に、もうこういった切磋琢磨な演奏は聴けない事が悔やまれてならなかった。
ウィンナーコーヒーを頼んで、まず生クリームだけ食べちゃう姿、
ハヤシライスを頼んだのに、カレーが来て、半分以上召し上がって「あれ?これハヤシライスじゃないね」と間違えを指摘して、しっかり後から来たハヤシライスを召し上がった事・・・
チャーミングな思い出が幾つかあります。
小学校に通っていた頃、よく母に連れられて色々な長唄の演奏会に行きました。学校をサボってでも連れて行ってくれた母でした。学校の先生的には困った父兄だったかも知れませんが、私にとっては多感な時に色々よい演奏を目の当たりにして幸せでした。
その頃、「あのおじさんは素敵」と幼心をときめかせたのが喜三久氏でした。「あのおじさんに小鼓を習いたい」と我がままを母に言った時期がありました。あのおじさんではない方を当時の三味線の先生に紹介されたけれど、あのおじさんではなかったのでパスするという生意気ぶりでした。
ある時、何故か母が長唄の流派の「お囃子教室」に参加する事になって、なんと「あのおじさん」に手ほどきを受ける事になって・・・、とっても「あのおじさん」が手の届くところに存在する事になった。が、やっぱり遠かった。
なんとかお囃子をやりたい気持ちの実現。「あのおじさん」は無理でしたが、同じ流派で大皮の名手だった前師匠のもとに入門したんだよなぁ。
そして、初舞台で、憧れの「あのおじさん」に並んでいただいた・・・。良き思い出です。
その時の師匠が急逝して、ぜひ憧れの「あのおじさん」に弟子入りしたかったけれど、素人弟子は基本的に受け入れないという事だったので、お囃子を続ける事を諦めちゃった。
それで私は看護師になったんだよね。でも、国家試験で大変だった時も時々亡くなった師匠が夢に出てきて「何故お囃子を辞めたのか」と責めるのです。たぶん潜在意識でお囃子を続けたかったのでしょうね。「ああ、お囃子がやりたい」という気持ちを奥底にしまいながら看護師となって、、、
が、そんな気持ちが芽を出した。ふとした事で今の師匠に出会った。母に流派を変わる事に対してすごっく反対されたけれど、お囃子やりたかったから。亡くなった師匠から学んだ事を無駄にしたくなかったから。
流派が変わった事で、「あのおじさん」がとても遠い存在になった。
しかし、流派を超えて教科書として、いつも「あのおじさん」はいた。
きっと「あのおじさん」ならこうして表現するだろう。小鼓に関しては、いつも「あのおじさん」を目指していた。
理想はなかなか実現できないのが素人である。「あのおじさん」のようになれなくて当たり前なのに、自身の非凡さムカついた頃もあったな。
・・・
色々と思い出が蘇る。
そうそう、何年か弟子・・・いやいや生徒さんだった母。大尊敬する方の訃報がどうしても受容できないようだ。
何度も何度も「喜三久先生が亡くなったんだっけ」と確認される。一つ年下の母。この衝撃が健康に影響しない事を願う。
このコロナ渦で、人間国宝で現役の演奏家の方なのに、盛大なご葬儀もできないのが残念。
急なご不幸だったようで、ご家族の皆さまも大変だったのではないだろうか。そして、心の準備もない別れに受容できない事ばかりでしょう。
本当に心からお悔やみ申し上げます。・・・合掌