身体拘束の研究の延長で、その研修会を予定して、スライドをつくった。
初体験に着き、品評会を。
医師と所属病棟の管理職を招いてのプレゼン。緊張した。
医師の意見を聞くと、やっはり病院は専門職の集合体で、その立ち位置で意見は出る事を確認した。
「身体拘束ゼロ」は難しい。が、努力次第で「身体拘束極最小化」が可能になる事を確信した。
何故なら、
「難しい・・・」の根拠が、我々ケアで改善できるであろう問題であるからだ。
「スピーチロック」。あって当然の意見があった。
いやいや、認知症の患者に対してスピーチロックはBPSDを増長するばかりの事である。
数年前に話題になった「一宮事件」もそうである。
患者の行動は理由あってのことだから、抑制はせずにその理由を明らかにして対応する。
「いけません」「だめでしょ」のような上から目線は認知症看護の世界ではタブーである。
医師的に身体拘束ありきは当然である。それは、看護に対する不理解があるからである。
看護師や介護士の対応の改善で「変化」がある事を知らない、あるいは認めたくないからであると思われる。
ユマニチュードの動画とかお見せしたい。というか、これだけ天下のNHKが推進しているのに知らないのは勉強不足である。
ユマニチュード、パーソン・センタード・ケア、カンフォードケアなどなど、多くのケア理論があり、それらが身体拘束削減にいかに有用か知って欲しいものである。
ゼロは無理でも、最小化は可能である。しかし、治療という観点のない療養型病院に身体拘束があることが不思議である。
身体拘束をしなくても済む医療提供の開発が求められる。「それがなければ起こらない事故」・・・。我々看護は努力はしますが、医師は身体拘束を必要としない医療の開発を考える事が大切です。我々は医療に対しては専門外。よって医師が考える事である。
医師と看護の協働があれば身体拘束はゼロに容易に到達できる。
容易ではない金沢大学付属病院が達成できているのが不思議。看護師の数ではないと思う。「身体拘束ゼロ」の理念こそが大切。
研究助言のドクターがかなり口下手の私を助けて下さいました。ありがとうございます。
さて会合前に業務改善の意見交換。いやいや、参加者は我が病棟の人ばかり。意見交換にはならない。
担当者は業務統一化を目指している。
“褥瘡”か“睡眠”か。
私は睡眠第一と思う。睡眠にも働きがある。記憶の整理と耐え難い苦痛の緩和。
認知症の人は「忘れる」というが、エピソードは忘れても体感したいやな記憶は残る。その記憶を緩和してくれるのだから大切である。
相反するように褥瘡管理という観点がある。高齢者を扱っているとすべての患者に対応は必要である。
しかし・・・本当にそうであろうか。というか、不必要な人も高齢者という事で体動の自由を奪っているのは看護師である。
介護用品は、在宅で介護する人のために開発されている事がある。我々は、勤務時間内の管理に過ぎないが、在宅の場合は24時間、365日の対応が求められる。真面目に教科書通りにやったら疲れますよね。そうならないように介護用品は進化している。
なのに、それに反する意見で患者の睡眠を妨害する意見もある。そりゃ、やっていけば「自己満足」につながるさ。
が、日々の病棟の患者さんを見て下さい。
うちの病棟の患者さんは穏やかな夜間を過ごしています。途中覚醒しても、トイレに行って入眠しています。
が・・・お宅はどうですか?とにかく一晩中うるさい。
向精神薬で眠らせても・・・深夜にうるさい。
この結果で、睡眠の重要さを感じました。
まあ、統一され事はよい事ですが、患者さんを中心において、患者さんにとっての幸せを考えるべきです。
辛ければ患者さんは覚醒しています。その時に体位変換をして差し上げればよいのではないですか。
もし自分だったら・・・
私は起こされたくない。もし、その介助者が気に食わなければ人けりしていますね。
褥瘡の原因も考えてみれば、睡眠を諦めてもコロコロが大切なんですかね。
私は、自分で動ける患者さんを動けないくらいに体位調整して満足する方が、よほどいけないケアに思います。
適材適所のケアは集団においてはむずかしい。特に夜勤は難しい。
巡視はしっかりして観察するというのが重要だと思います。