多摩川の風景 | fuyusunのfree time

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長唄などの邦楽をこよなく愛する看護師のfuyusunです。
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と言っても、現代の多摩川ではありません。

長唄の『多摩川』。今度お囃子を勉強しますが、この曲にお囃子あったんですね。それを知ったのが何年か前の真しほ会。吃驚でしたね\(◎o◎)/!

この曲は、明治41年五世杵屋勘五郎の作曲。作詞は永井素岳。このお方は新橋や柳橋の花柳界の顧問をされていたのだそうです。それが縁なのでしょうか。明治41年の新橋秋季演芸会の出し物として作曲されたものだそうです。こういった花柳界の温習会のために作曲されたものは、その場限りでお蔵入りする事が多いのだそうですが、何故かこの曲は今も人気定番となっています。

この曲は多摩川の名所を唄う曲。


多摩川の源流は山梨県と埼玉県の県境にある笠取山山頂の南斜面下「水干」が源なり、柳沢峠から流れる柳沢川と合流。丹波川となり奥多摩湖に注ぐ。そして、この奥多摩湖の出口。つまり今の小河内ダムから下流を多摩川と呼ぶのだそうです。

今でも自然豊かな奥多摩から東京湾に向かって流れていく。

万葉の時代に、すでに多摩川が歌に登場している。

「多麻河泊尓 左良須弖豆久利 佐良左良尓 奈仁曽許能兒乃 己許太可奈之伎(多摩川に、さらす手作り、さらさらに、なにぞこの児の、ここだ愛(かな)しき)-作者不明-」 万葉集東歌14‐3373

<訳>

多摩川の清流にさらさらと布をさらすよ、流れはさらさらとして・・・。ああ、更に更に、どうしてこの娘はこんなに可愛いいのでしょうか。


古墳時代。唐や新羅によって滅ぼされた高句麗や百済の人々が日本に渡来してきたそうです。その人々は今の東京・神奈川・埼玉に住みついたのだそうです。

狛江という土地がありますが、これは高麗(高句麗の別名)の人が住む入江というのがその名前の由来だそうです。

多摩川流域は麻や絹の生産が盛んなところだったそうです。

そうそう、調布には織物に関連した町の名前がたくさんあります。また、隣接する世田谷区にも砧なんていう地名があったり・・・。このあたりが織物が主たる産業だったんだろうなぁと想像させる地名が一杯です。

そもそも、調布というのも・・・

奈良時代に入り、天皇家への貢物=調(みつぎ)として布を献上した事が地名の由来となっています。


さて、この『多摩川』もクライマックスに「晒しの合方」というのがあります。

晒しの合方。『越後獅子』や『晒女』にもある合い方。踊り手が長い晒しを新体操のリボン体操のように振る所作が見せ所。

さてさて、この晒しの合方。もともとは宇治川の水で布をさらす描写した地唄の「さらし」がもととなり、江戸長唄に取り入れられたと言われている。

この『多摩川』のさらしは、きっとたぶん、調布あたりの布を晒す風景を描写しているんでしょうね。

何せ昭和三十年代まで、多摩川で布を晒している風景があったのだそうです。


今やリバーサイドの高級住宅地として人気のある土地のイメージがあるけれど、昔はきっと穏やかな風景だったのでしょうね。

そんな穏やかな風景を忘れずに小鼓を打てたら最高だなぁ。