吉祥寺にオープンしたカルチャーセンターのパントマイム教室を受講したというのがきっかけだ。
だいたい、パントマイムなんてよく分からない世界だった。よく分からないけれど面白そうで始めたパントマイム。右も左も分からない。
講師はヨネヤマ・ママコ氏とそのお弟子さん。
当時、何もしらない私はママコ氏のビッグさも知らなかった。日本のパントマイムの草分けとされる人であると知ったのは後々の事である。
「凄いオーラのある人だな」というのが第一印象だった。
無の空間に体の表現だけで“有”を生む。パントマイムの面白さに出会い熱中する。
そんなある日、とあるイベント出演者候補に選ばれ、ママコ・ザ・マイムのスタジオに通うようになる。
まあ、バレエやダンスの素養がないことで、その選考からは漏れてしまった。でも、それが縁でママコ・ザ・マイムの公演の出演者として選ばれた。
なんか不思議だな。ついこの間まで「パントマイムってなに?」だったのに・・・。
ママコ氏との出会いは、まだ三船に入る前の事。つまり、予備校に通っていた時代のことである。
まったく予備校生とは名ばかり。舞台人としての足元づくりに励んでいたことになる。
親の心子知らず。親不孝な娘である。
今まで母はなんとも言ったことがありませんが、きっとパントマイムにのめり込んで一生懸命に稽古に通っている私を見て「もうこの子は大学なんて行く気がないんだうな」と悟ったのかも知れません。
ママコ・ザ・マイムの公演の稽古の合間を見て、三船芸術学院のオーディションに臨む。そして合格のチケットを手にする。考えてみたら、あの頃は運気上昇中。色々な幸運を手にしていたように思う。

初舞台は平塚の市民ホール。大きなホールだった。平塚子ども劇場主催の公演。大勢の子供がいる客席に飛び出しパントマイムで作った風船を子供に渡すというお役目だった。
キラキラとした無数の子供たちの目がとっても綺麗だった。心臓が口から飛び出てしまうくらいに緊張していましたが、人前で表現する楽しさを味わってしまった。そして、フィナーレ。舞台上に流れる異世界の空気。スポットライトを浴びる気分の良さを味わってしまった。この初舞台の気分のよさが私を舞台中毒にしてくれたように思う。
二回目の舞台は名古屋の親子劇場だった。名古屋公演に向けての稽古に入ったころ、私は三船芸術学院の研究生の生活がスタートした。二束の草鞋。朝早くから夜遅くまで学校と稽古の毎日。ハードな毎日を送っていた。若くなきゃできない技だ。自分としてはとても充実していた。しかし、二束の草鞋という心構えは褒められたものではない。役者を選ぶかパントマイムを選ぶかをママコ氏から言い渡される。そして、私は役者を選んだ。そして名古屋公演を最後にパントマイムの世界に別れを告げた。余りにも短期間の出会いではあったが、私の中ではとても大きな出会いであった。そして、今も尚、我が師であったヨネヤマ・ママコ氏を尊敬し舞台人としての母と思っている。
舞台人としての心構え。芸に対する向き合い方。多くをヨネヤマ・ママコ氏に師事したことで得る事ができた。