自分の歩んだ道のりをまとめてみたい気分に。つまらないfuyusun史。たまにブログに登場すると思いますが宜しくお願いいたします。
青春時代。あの頃の自分はパワフルで前しか見ていない時代だった。
この頃は、一番パワフルで熱く活発に夢と希望でいっぱいな時代だっと思う。
怖いもの知らずの青春時代。私は演劇という世界に足を踏み入れて生きていました。
結局、この道を達成する事はできなかった。しかし、あの頃の経験があったからこそ今がある。決して人生の選択を失敗したとか、無駄な時間を過ごしてしまったという後悔はない。
一つの目標に向かって、直向きに我武者羅に歩くなんて青春時代にしかできない事。あの頃のパワー。少しおすそ分けしてもらいたいものだ。
大学受験に失敗し、高校を卒業後はいわゆる予備校生という道を選択する。
自分は演劇という道に進む事しか考えられなかったが、両親はそのことに対して猛反対だった。
結婚前の両親。父は東京の大学で演劇を学んでいたが体調を崩し中退。故郷に帰って片田舎の劇団で演出の勉強をしていたらしい。母も女優を志して地方都市の劇団で活動していた。二人は演劇を通して出会い、互いに演劇論などをぶつけ合って愛を育んだようだ。二人は東京に出てもっとメジャーな演劇活動をしようと結婚。
しかし、残念な事に結婚してその年に私が誕生してしまった。一つの命を授かってしまった二人。生活に追われ、夢や希望どころでは無くなってしまったらしい。
役者というのは商売だ。生きるための手段であり、夢や希望ばかりでは生きられない世界だ。能天気に夢見る夢子ちゃんで育った娘が演劇界という常にサバイバルが行われている厳しい世界では生きられない。その世界の厳しさを身を持って知っている二人がそう易々と役者になることに対してOKは出さないだろう。反対は想定内。ただ、どう説得するかが問題であった。
・・・と言いつつ、どう説得したっけな?きっとたぶん自分に都合が悪い記憶なので抹消されたに違いない。説得の詳細は覚えていない。ただ、演劇学校の学費を出してもらうにあたって「必ずお返しします」という借用書が実在する。そんなものの存在も忘れていた。先日、日記を整理していた母が「こんなものが出てきた」と三十年も昔の借用書を見せられた。もちろん返却はしていない。本当にいい加減な娘である。

三船芸術学院。世田谷区成城にあった三船プロダクションの撮影所の一部に設けられた演劇学校である。
映画俳優の三船敏郎が演劇を志す若者たちを育てる事を目的に作った学校。豪華な講師陣を揃えた華々しい学校だった。映画製作に失敗など母体のプロダクションの足元を揺るがす。そのために撮影所は閉鎖に追い込まれた。また同時に学校も閉鎖。私が卒業した年の話だ。
栄枯盛衰世の習い。
この当時、勝新太郎や丹波哲郎、宝田明といったスターたちが、後進の育成を目的に俳優養成所を立ち上げるのがブームのようだった。多くの青少年が演劇を志してこういった学校に入学するわけだが、その中で志しを達成して人生を歩んでいる人は一握りもいないように思う。
寺島進氏は三船芸術学院の同期。彼はそのスターダストの中でひときわ輝きを放つ大惑星だな。その他の人たちはどうしているのかな。