色々な「鏡獅子」 | fuyusunのfree time

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長唄などの邦楽をこよなく愛する看護師のfuyusunです。
ナースの仮面を脱いだ、fuyusunの日常を綴っています。

私は、いつも家で小鼓のお稽古する時はテープを使用して練習します。
でも、テープの練習って弊害があります。
そのテープのノリが全てになっちゃうのですよ。
でも、本番というのはその三味線や唄の方によってノリが違うのですよね。
この三味線はここをすごっくテクニカルにノリよく進んでいるけれど、あの三味線はゆっくりじっくり味わい深く表現している。なんて良くある事です。
ですから、一つのテープで合わせているとそのノリでしか演奏できなくなってしまう恐れがあるのです。

コンダクターは長唄のタテ三味線ですから、そのコンダクターに対して「あなた。伊十郎全集のノリと全然違うわよ。あなたは間違っている」なんて言えないのです。
伊十郎全集のタテ三味線の方は、芳村伊十郎という名人の唄が引き立つように、また自分の現すその風景からそう演奏しているわけです。
ですから、どれが間違っていて、どれが正しいという事はないのです。まあ、シトシト雨が降る情景を晴天の情景の如く表現したら「えっ???」に成りますけれど、でもその三味線弾きはそう感じて弾いているのだから間違えではありません。ただ、一般的感覚からあまりにもかけ離れたインスピレーションで表現しちゃうと、「あの人はセンスが悪い」となるだけなんです。決して間違えではないのです。

どんなノリでも、対応して演奏する。これがお囃子の役割です。ですから、テープで練習するというのは弊害があるんですよね。
私は、普段の練習で色々なテープを使って練習しています。
同じ「鏡獅子」でも、師匠から頂いたテープの「鏡獅子」と伊十郎全集の「鏡獅子」と宮田・五三郎全集(長唄の美学)の「鏡獅子」とでは三者三様なんですよね。
どう来ても小鼓を打てる。これが大切なんですよ。

同じ演奏者でも、いつも同じノリとは限らない。
気分がノリノリの時と、どうも調子が悪い時とでは全然違います。
生演奏というのは生き物ですね。

亡くなった大皮の師匠が、テープなんていう知れ物は屍みたいなものだから、そんなので合わせて勉強しちゃいけない。と言っていました。そうですよね。私たちが演奏会で耳にしている音楽は一期一会なものであって、その場で聞いているから価値がある。その演奏とまるきっり同じものを、また違う日に聞こうなんて本来はできないものなんですよね。
そのテープで出来たからって、実際の生演奏に合わせる事ができるとは限らないのです。同じ○○さんの三味線であってもその日の○○さんの感性で全く違うノリになる可能性があるわけですから、過去の遺物で出来た出来たと喜んでいても、実際の伴奏で出来なくちゃなんの意味もないわけですよ。そういった意味で「テープで勉強しちゃいけない」と亡くなった大皮の師匠は言いたかったのかもしれません。でも、実際は唄や三味線の伴奏に合わせるものだから、手がかりとなる音があった方が効率的だと思うのですけれどね。
音楽は生き物という認識を忘れずに練習していないと。

という事で、いろんな「鏡獅子」を聞いて、メインで使用しているテープとは違う色々な「鏡獅子」があるんだよ。と言い聞かせながら私は練習しているんです。