花嫁衣裳 その1 江戸時代~明治時代 | 風遊花(ふうか)~古布とうさぎとお雛様~

風遊花(ふうか)~古布とうさぎとお雛様~

~作品展 ものつくりをする仲間達 ギャラリー ショップ~
  大好きなもの 日頃の様子を気ままにご紹介します。

シルク博物館で開催中の≪花嫁衣装―晴れの日の模様と彩り―≫

暗くて写りが悪いものも有りますが 写真をたくさん撮ったので(ノーフラッシュで 撮影OKです) パンフレットに掲載されていたものと合わせて記録し 覚書代わりにしたいので 興味のある方は お付き合いください。

 

 

 

まずは 花嫁衣裳の定番の白無垢(昭和53年)が 会場入り口で迎えてくれました。

実際に私は着ることが無かったけれど 子供の頃から 綿帽子に白無垢姿 ずっと憧れでした。

映画で見た百恵ちゃんの白無垢姿が あまりにも悲しくてきれいだったのが 印象的過ぎたのかしらね・・・

 

 

 

アップにすると 波文様に飛翔する鶴が織り込まれている綸子の白無垢でした。

 

 

 

白無垢の原点は 室町時代(1336年~1573年)にさかのぼります。

15世紀後半 応仁の乱以降も混乱の続く社会の秩序を立て直すため 室町幕府は礼道を重んじ 婚礼に関する手引書も作られ 武家社会の婚礼作法が定まりました。

花嫁は 練絹(ねりぎぬ)の白い小袖の上に 幸菱(さいわいびし)()の地紋を織りだした白い打掛を身に付けました。

この婚礼方式は 江戸時代の武家社会にも引き継がれた後 豪農や豪商などの富裕層も白無垢を着用し 花嫁衣装として定着していきます。

明治期以降になると白無垢の裏地を赤色にしたり 裾に金糸 銀糸で模様を付けるなど 時代によって変化していきました。

  

  ※幸菱・・・花菱を組み合わせた文様で 先間菱(さきあいびし せんけんびし) 

        先剣菱(せんけんびし)とも言われる吉祥紋

        (画像は 手持ちの手持ちの資料本 文様の手帖(小学館)参照)

 

      

 

 

展示中の白無垢は 昭和53年に着用されたものなので 白一色ではなく 裾や袖口に赤い裏地が見えています

 

 

 

室町時代の花嫁は 生家で白装束に身を包み 従者を伴い素朴な輿(こし)()に乗って嫁ぎ先に赴き 座敷で花婿と杯を交わす儀式行い 嫁いだ日から3日目に《色直し》を行います。

  ※輿・・・人の力で人や荷物を運ぶ乗り物の総称ですが 主に2本の棒の上に

       人を乗せる屋形がある物

       

 

色直しまでは 花婿側の女房()がお祝いの酌や配膳を行い 色直し後は花嫁側の女房に交代します。

色直しは 花嫁が花婿側の人間になった証として 双方の家が和合を図る重要な場面でした。

   ※女房・・・主人の身辺に直接関わる雑務を果たす身分の高い使用人

 

 

江戸時代に入ると それまでは日没後に行われていた婚礼は 日中から始まり 色直しも同日中に行われ 花嫁の輿は 黒漆塗りの上に蒔絵が描かれた豪華なものが使われるようになりましたが 武家故実に基づき 地位や財力に応じて 適宜簡略化して行われるようになりました。

 

色直しでは 花嫁と花婿が互いに贈り合った衣装に着替え 舅姑や花婿の兄弟姉妹と再び盃事に臨みます。

花嫁衣装は 白・赤・黒の3色が基本。

武家では最初に白無垢 次に赤無垢 最後に黒地に刺繍が施された打掛に着替えました。

民間の富裕層では 武家よりも着替えの回数が多く 白無垢→赤無垢→白地に模様の打掛→赤地に模様の打掛→黒地に模様の打掛という様に順次着替えをしたり 基本の3色の他に青色(浅葱(あさぎ) 縹(はなだ))の衣装を着ることもありましたが 青色は白黒赤比べ 重要度が低い色と位置付けられていて 黒の衣装の後に着用されました。 

(色見本画像は 手持ち本《和の色のものがたり~歴史を彩る390色~(資格デザイン研究所)》《和の色のものがたり~季節と暮らす365色~(資格デザイン研究所)》を参照としました)

 

 浅葱色                 縹色

  

 

 

江戸時代の文献にも 花嫁の色直しの衣装について 下記の様な記録が残っています。

  ・白無垢の打掛を脱いで 色物や赤の打掛を着る

  ・花婿から花嫁へ色直し用として赤地と黒字の打掛を差し出す

  ・赤無垢に着替えるか 色糸や金糸 銀糸で模様を付けた鮮やかな小袖に着替える

 

 

また 花嫁の婚礼に立ち会う中位の女中は 空色(明るい青色)の打掛を着用 婚礼に立ち会わない下位の女中は 小袖を着て輿入れのお供をしました。

 

 

下記の衣装は 江戸時代の色直し用の衣装です。

 

《小袖 紅縮緬地 蓬莱(ほうらい)模様刺繍》(江戸後期)

 

 

 

州浜(すはま)(州が入り組んだ海岸)や岩座に松竹梅を茂らせ 飛翔する鶴や水中に蓑亀()を配した模様を《蓬莱模様》と呼び 武家や民間の富裕層に共通する典型的な最上の吉祥模様でした。

本来 蓬莱模様は中国から伝わった物ですが この小袖は 蓬莱山に住む仙人 楼閣 鳥獣などの模様を無くし 本来なかった松竹梅を加えたりして 日本好みに仕上げた模様です。

  蓑亀・・・背中に蓑を羽織ったように 甲羅に藻がたくさん生えたり 藻が

        尻尾のようになった亀の事で 長寿尾象徴する縁起の良いものと

        されている

 

 

地色の赤は 色褪せが進んでいますが 鶴や松竹梅の刺繍はきれいに残っている小袖でした。

 

 

 

《振袖 白綸子地 貝桶に貝覆い模様刺繍》(江戸時代後期)

 

 

 

江戸時代の民間富裕層には 平安王朝文化を彷彿とさせる器物の貝桶 几帳 御簾などが吉祥を表す模様として人気があり 晴れの日を彩る花嫁衣裳に刺繍を施し 模様としました。

貝桶は 貝覆いや貝合わせなどの遊びにい使う蛤の貝殻を収納する道具です。

二枚貝の貝殻は 他の貝殻とは組み合わないため 夫婦和合の象徴とされ 貝桶は婚礼道具として最初に受け渡されるほど重要な物でした。

 

 

 

 

《振袖 赤綸子 熨斗模様 匹田絞》(江戸時代後期)

束ね熨斗と雪輪模様を 全て鹿の子絞り染めで 表現してしている贅沢な振袖です。

 

 

 

熨斗は 熨斗鮑(のしあわび)の略称で 鮑の肉を薄く剥ぎ 引き延ばして乾かしたもののことで江戸時代以降 古事の贈り物や引き出物に添えられたのが始まりです。

鮑を何度も伸ばして使用したことから 長寿に続くものとして縁起物とされてきました。

雪輪文様は雪の結晶から生まれた文様と言われており 五穀豊穣の意味を持つ吉祥文様として知られています。

余談になりますが 雪の結晶が六角形だと判明したのも 江戸時代だったのだとか・・・

 

 

布を糸できつく括り 染料に浸して作る鹿の子絞りは 粒が揃った鹿の子に仕上げるのには 大変な手間と高い技術が必要で 贅を極めることに重きを置いた富裕層ならではの花嫁衣装です。

 

 

 

こちらは 《三つ揃い》のうちの2点です。

花嫁衣装における《三つ揃い》は 白地 赤地 黒地に ほぼ同じ模様を施した三領()の着物で 武家の婚礼で行われる 白無垢 赤無垢 黒地に刺繍模様の打掛の着替えを 裕福な民間人が参考にしたものと言われています。

商売上の交際や 親戚縁者との結束を重視する民間では 数日にわたり宴会が催され 三つ揃いはその場面で花嫁が着用しました。

  領・・・完全な1組の衣服を数える時に用いる単位。

       《領》は うなじや首 襟を意味することから 平安時代に衣服の

       数を数えていた習慣に由来し 鎧を数える時にも使います。

 

 

 

三つ揃いは 綸子や縮緬の生地に 刺繍で模様を表現します。

三つ揃全てを打掛として着用する場合は 白 赤 黒の順で着替えて行きますが 黒地の着物の 模様が違っている物が現存し これは 白地と赤地の着物を着て帯を締め 黒地の着物を打掛として使ったとも考えられています。

 

 

《振袖 赤綸子地 松竹梅に折鶴模様絞繍》

 

 

 

《振袖 白綸子地 松竹梅に折鶴模様絞繍》(江戸時代後期)

 

 

 

模様の松竹梅には 絹糸を使った刺繍 折鶴は本金糸(和紙に金箔を貼り 細く裁断したもの)と鹿の子絞り染めで仕上げています。

地色の赤は 高価な紅花で何度も染め出し 松模様に使われた刺繍糸の萌黄色や深緑は 苅安で黄色にした染めした後 藍で染め出して色付けしています。

 

 

 

 

並べて見ると 同じモチーフの模様が描かれているのが解るかな・・・

 

    

 

 

 

 

明治時代に入ると身分制度が廃止され 四民平等が提唱されます。

必ずしもすべての国民が平等という訳ではありませんでしたが 婚礼を行う人が増え 花嫁衣装に対する考えも多様化していきます。

松屋呉服店が明治42年(1909年)に発行した《お嫁入支度案内》には 麻や樹皮を染めて作った白い葬儀用衣類と 絹を染めずに作った白い祝儀用衣類を混同しないように 祝儀用衣類の方は 裏を赤くすることを推奨しています。

白無垢は 嫁入り後 再活用されることなく しまい込んでおかれるものですが 目立たないように裾に金糸や銀糸で刺繍を刺しゅうを施し 裏を赤くすれば 裏地を白く変えると 神事や物忌みの時に着る祭服として活用できるということも提案しています。

 

 

明治時代の花嫁衣装は 江戸時代からの伝統色を継承し 白 赤 黒が基本ですが 鼠色など

当時の流行色の打掛も現存し 重ね着にも流行色が取り入れられ 黒の代わりに紫を使ったものもありました。

 

文献に出てくる色直し服の中には《花葡萄》《小町鼠》という色名が記されている物もあり 上着に黒ではなく 流行色を使った三枚重ねの着物は 式服というより 主に色直しの衣装として用いられ 人口の大半を占める中間層の衣装として浸透していきます。

(色見本画像は 手持ち本《和の色のものがたり~歴史を彩る390色~(資格デザイン研究所)》

 

花葡萄                  小町鼠

 

   

 

 

《振袖 浅葱色縮緬地 松竹梅鶴亀に流水の風景模様染繍》(江戸時代後期~明治時代)

 

 

 

蓬莱模様に御所車や菊 牡丹などがあしらわれ 典型的な蓬莱模様からアレンジされ 新しい文様として描かれている振袖です。

梅 牡丹 菊の一部は化学染料で 濃い桃色に染めた絹糸で刺繍されています。

 

 

 

 

《小袖 黒繻子地 高砂模様刺繍》(江戸時代後期~明治時代)

 

 

 

 

 

 

花嫁衣装は 明治期後半になると 婚礼後の使用が可能という実用面が重視され 振袖から留袖へと変化していきました。

江戸時代から 黒は格式の高い色という認識があり 明治時代の後半には 黒紋付の着物の下に白襟のきもの重ねることが一般婦女子の正礼装との基準ができた事もああり 三枚重ねの一番上に着る黒い打掛や 黒留袖の花嫁衣装が普及したものと考えられています。

 

 

 

そしてこちらは 掛袱紗

 

《掛袱紗 浅葱繻子地 三番叟模様刺繍》(江戸時代後期)

 

 

 

《掛袱紗 塩瀬地 岩礁上の瓶の図 描絵》(明治時代)

 

 

 

掛袱紗は 祝い事で贈り物をする時に お祝いの品の上に掛ける覆いのことです。

江戸時代前期から中期にかけて武家において 掛袱紗に美しい装飾がなされるようになり 日本の刺繡技術の進歩と共に 折々の祝儀にふさわしい吉祥模様を刺繡した袱紗が制作されました。江戸時代後半になると 掛袱紗の習慣が裕福な町人にも普及し 武家方が用いる様式的な模様とは異なり 人気のある説話の模様や 身近な風物を大胆に模様化した袱紗なども制作されました。

刺繡以外にも 友禅染や綴織など 様々な技術が生かされた袱紗が作られるようになりました。

現在は 年始の挨拶や節供 お中元やお歳暮 婚礼や長寿のお祝いなど 伝統的な行事やお祝い事に合わせてあつらえるそうですが 我が家では 結婚式のお祝いや御香典をお届けする時くらいしか 袱紗を使いことはなかったような・・・・

 

 

時代と共に変わっていく 花嫁衣裳 次回は 大正時代~昭和の花嫁衣裳をご紹介します。