よみがえる少年の日々ー佐草健 ボールペン画展ー | 風遊花(ふうか)~古布とうさぎとお雛様~

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~作品展 ものつくりをする仲間達 ギャラリー ショップ~
  大好きなもの 日頃の様子を気ままにご紹介します。

先月 近所の掲示板で見かけたポスターの《よみがえる少年の日々ー佐草健 ボールペン画展ー》を平塚市博物館に見に行ってきました。

 

 

 

 

 

佐草さんは 父と同じ生まれ年(大正15年~平成29年)。

平塚市中原地区にお住まいの小学校の先生でした。

若い頃から絵を描くのがお好きだった佐草は晩年になってから 昔の記憶をたどり 昭和初期の中原地区の様子を描き出しました。

 

 

 

 

 

中原地区は 大永元年(1512年)に 甲州武田氏の子孫が草原を開拓した場所で 慶長元年(1596年)に造営された中原御殿(現在は 平塚市立中原小学校校地)・雲雀野(ひばりの)御殿があり 徳川家康の宿所となっていた 由緒ある地域です。

中原地区で醸造していた酢は 中原代官  成瀬五左衛門が家康に献上し喜ばれたことから 《成瀬酢》 《中原酢》と呼ばれ 御殿と江戸城を結ぶ中原街道は 中原酢を献上する道として《御酢街道》と呼ばれていたそうです。

残念ながら 200年ほど続いた♂の献上が廃止された後 享保時代(1830年~1844年)には醸造は行われなくなりました。

その後 明治時代に中原御林は 御料林となり その跡地に日本火薬製造会社が建設され 大正8年(1919年)に海軍火薬廠(かやくしょう)となりました。

そのため 第二次大戦の終戦直前 昭和20年7月16日の夜間の平塚空襲で 中原地区も大きな被害に遭いました。

(上記の中原地区の歴史は 今回の展示の図録の記載を参考にさせていただきました)

多くを語る事はありませんが 当時 16才だった母は 海軍火薬廠内にある看護学校の学生だったため 問わず語りにその時の様子を話すのを聞いた事があります。

 

 

佐草さんが描いたのも  母も見ていただろう昭和初期の中原地区の暮らしぶりです。

ボールペン画の他にも 水彩画などで描かれた風景画 人物画 慈母観音像の掛け軸 紙粘土で作ったお神輿や お孫さんのために制作された五月人形なども一緒に展示されています。

(画像は ポスターと図録からお借りしました)

 

 

 

 

 

展示室には 絵と合わせ 描かれた場所の現在の写真や日常遣いの道具なども展示され 見学に来られていた年配のご夫婦が 懐かしそうにご覧になられていました。

戦前の学校で使われていた机や教科書も並べられています。

その中にあった 当時の少額1年生の国語の本には 兵隊さんの絵と一緒に

《ヘイタイサンガ ナランデキマス

アノハタヲ ゴランナサイ

アレガ グンキデス》

の文章。

学校に入学し 初めて学ぶ言葉が こういう言葉であったことに 胸が痛くなる思いでした。

 

 

今回の展示は 絵の展示というだけでなく 昭和初期の暮らしぶりを知る事ができます、

11月29日(日)まで開催中なので お近くの方 是非お出かけくださいな