彼女は、スーパーウーマンなのか? | 非二元|自分を見失わず幸福に生きる「技と知」

非二元|自分を見失わず幸福に生きる「技と知」

より多くのお金を求めて働く貨幣経済の中で、自分らしく輝きながら、他者と共に幸福に生きる「技と知」を、ライフコーチの矢沢大輔が提案。

今日は、姪(私の妹の娘)の、普通に考えたら「桁外れ」とも思える実践力について、私なりに理解していることを書き記しておこうと思う。


姪は、昨年、大学を卒業して、今、東京に本社がある企業Aの国際部で働いている。


就職してからまだ1年も経っていないのだが、英語を使って、約20カ国の仕入れ先と交渉を行い、ある素材の調達を安定的に保てるよう、時には海外まで出張して調整を行なっている。


彼女は、これまで長期の留学経験もなく、それでいて英語だけでなく、フランス語も話せる。


どのような学習をしたことで、日本にいながら2カ国を話せるようになったのか?


その理由を知りたくて、妹にいろいろ聞いてみたのだが、学校の授業とオンラインでの英会話以外に、特別なことをやっていたわけでもないらしい。


その一方、「お母さんもやってみたら」と姪からすすめられて、2年半前から英会話の練習を始めた妹は、いまだに「単語がなかなか口から出てこない」と言っている。


この親子の言語習得の違いを見て、私の父(姪にとっての祖父)は、「やっぱりもともとの出来が違うんやで。あの子は天才なんやで」という言葉で、全てを片付けようとしてしまう。


確かに、姪がこれまでに成し遂げてきた実績を見ていると、スーパーウーマンのように思えなくもない。


たとえば、小学校の時から、作文を書けば、文科省から表彰されて新聞に掲載されるほどの文才を発揮し、中学受験では、神戸で最も偏差値の高い女子校に合格し、高校では生徒会長を務めながら受験勉強を行い、京都大学に合格。

大学では、学業のほかに、夜間まで演劇の稽古をしていた。


また、私の父が営む釣具店で、釣り道具の制作に必要な材料が手に入らなくて困った時、高校生だった彼女は海外の企業とメールで交渉を行ない材料を調達してくれたり、大学に進学してから釣船を運転できる小型船舶一級免許もとってしまった。


そして、東京の企業に就職してからは、公認会計士の資格をとった方がいいのではないかと考え始めているらしい。


また、YouTubeに自分が描いたアニメを公開すると、1本の動画で30万回視聴を獲得し、A社の上司(ほぼ全員が東大出身)から「どうすれば視聴回数を伸ばせる動画を制作できるのかを教えてほしい」と言われているらしい。


こうやって書き出すと、私の父が「持って生まれた素質が違うからだ」と断定してしまう気持ちもわからなくはない。


でも、私の考えはまったく違う。


何かを学習している場面で、人が「わかった!」という時、いったい何を見出した時に「わかった」と言うのだろうか。


それは「答え」がわかった時だ、と思ったなら、「わかる」とはどういうことかを知らないまま、「わかった!」と言ってしまっている可能性が高い。


これに対して、姪の場合、どのジャンルの学習においても、「わかった」というのは、なんらかの「規則性(ルール)」を見つけた時であり、「よし、これでこのゲーム(遊び)のルールがわかったから、この先もこのゲームを楽しめるぞ」と歓喜しながら、次から次へと規則性が異なるゲームの楽しさを発見しつづけているように、私には見えるのだ。


では、なぜ私にはそう見えるのかというと、20世紀に「天才哲学者」と呼ばれたWに関する本を読んできたからだ。


昨年、Wの本を持って近所のカフェに行った時、隣りの席の男性のテーブルの上にもWに関する本が積み上げらていたので、「大学で哲学の勉強をしているの?」と訊ねると、彼は教育学部で教育工学を学んでいて、大学院に進むためにWの哲学を研究中であることを教えてくれた。


彼とはそれ以来、一緒にコーヒーを飲みに行ったり、LINEでやり取りしたりしながら、哲学者Wに関してお互いにどんな本を読んできて、どんなことを知り得たかを語り合える友達になった。


こうして私は、現在の教育の現場でもWの哲学が活かされていることを知り、それと同時に、姪がスーパーウーマンに見えるのは、彼女が通っていた中学、高校の教師もまた、Wが語っていた「わかる」「理解する」とはどういことかを知っていたからに違いないと確信できるようになったのだ。


ちなみに私は、ここまでの文章を25分ほどで書き上げた。


なぜ、短時間のうちに考え込むことなく書き上げられたかというと、これもまたWの哲学に触れ、「書く」とはどういうことかをわかるようになったからだ。


「書く」とは、頭の中にある考えや思いを言葉にして記す(文章化する)ことではない。

ということが、Wの本を読むうちに私にもわかってきて、「書けそうだ」と思った時、その感覚を合図にして、誰もが読める「文章」となって現れ出てくるのだ。


お知らせ

哲学者Wは、「哲学とは、ハエ取り壺(哲学的な病)に陥り、出口を探してジタバタと動き回るか、探すのをあきらめておとなしくなったハエに、そこからの出方を示してやり、自由に飛び回れるようにしてやること。これが哲学の目的だ」と語っていました。


たとえば、景色を撮影するためのカメラ(主体)が、撮影された写真(被写体)の中に写ることはない」という比喩を用いて、「目の前の景色を見ている主体(私)は、見られている景色の中にはいない」という観念論に陥ったなら、「私は(世界の中に)いない」という新しいものの見方を得たかのような錯誤に陥ります。


このような観念論に陥り、「わかちゃった」という文法的錯誤が起きたなら、今度は、自分が「わかっちゃった人」として、周りの人にも「わかっちゃた人」になることを薦める観念論の連鎖的な活動さえ起こり得るようです。


既に本文でも述べましたが、これが、「わかる」とはどういうことかを知らないまま(無知のまま)、「わかった!」と言ってしまっている一例であり、哲学的な病におかされ(観念論にハマりこみ)自由に飛び回れなくなっている状態にある、ということです。


そこで、3月の講話会では、どのような文法的錯誤から、哲学的な病に陥ってしまうのか?

陥った壺から出る方法は、出口を探すことではなく、どのような錯誤から壺の中に入ったかを自ら知ること、つまり入口に戻ること。

「わかる」「理解する」とはどういうことなのか?

などについて語り、壺から出て自由に飛び回れる生き方(良い意味での哲学的生き方)をお伝えします。

矢沢大輔

ノンデュアリティ・プライベートセッション