「記憶としての痛み」の消し方 | 非二元|自分を見失わず幸福に生きる「技と知」

非二元|自分を見失わず幸福に生きる「技と知」

より多くのお金を求めて働く貨幣経済の中で、自分らしく輝きながら、他者と共に幸福に生きる「技と知」を、ライフコーチの矢沢大輔が提案。

忘れたいことを、頭の中から消したいのですが、何かいい方法はありませんか?


このような質問が出たのは、今から10数年前。

私がまだ研修講師として「記憶法」を教えていた頃のことでした。


当時の私は、百貨店でスキンケア商品を販売している方々に、なかなか関連付けて覚えられない「商品名ー成分名ー効能」とを構造化して記憶する方法を教えていました。


また、個人向けには、どういう順序で本を読み、どのように要約すれば、本の内容が記憶に残りやすくなり、かつ人にわかりやすく内容を語れるようになるかを教えていました。



記憶法、読書術のいずれにおいても、覚えたい情報を脳内に入れる際(インプットする時)に、どのような情報処理を行うと、記憶に残りやすくなるかを教えていたわけですが、その反対に、「頭の中にある記憶を消し去る方法はありませんか」と聞かれた時には、正直、何も答えられませんでした。


しかし、このような質問を受けたことで、私の中に、新たな興味が湧き上がってきました。


なかなか覚えられないものを、覚えられるようになる有効な方法があるなら、「忘れるため」の有効な方法も、誰かが研究しているのではないか、と。


それ以来、様々な文献を読み漁るうちに、「そもそも忘れたいのに、忘れられないで人を苦しめような記憶とは、ショッキングな出来事が起こった後に、記憶として中枢神経に残る痛みであり、それは身体的に感じる痛みとは、別のものであることがわかるようになりました。


また、それと同時に、忘れたい記憶を忘れようと努力する度に、その経験の記憶が思い返されてしまうため(反復されてしまうため)、返って記憶に留まりやすくなるけれど、同じ「思い出す」にしても、どのような語り方をすると、その記憶の色合いが薄まり、痛みが静まりだすかも、わかるようになってきました。


「覚える」ことと、「忘れる」こと。


記憶に関するこの真逆の現象の成り立ちを調べれば調べるほど、「エピソード記憶」と「意味記憶」のどちらが優位であるかによって、記憶の濃淡が変わることがわかるようになり、「なるほど!」と膝を打つような発見や驚きも増えてきました。


これからも、「記憶と言葉と世界」の結びつきをどう解明すれば、「幸/不幸」「生/滅」の二項対立を超えた(二ではない)自由に至れるかを、下記の講話会やプライベートセッションを通じて皆さんにお伝えしていきます。

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