エゴには見えない現実のきらめき | 非二元|縁起的現象としての「私」

非二元|縁起的現象としての「私」

宇宙的自己に目覚める記事を配信。
「迷悟」「苦楽」「生死」の相対を超えた「身体・宇宙」一如の絶対的あり様とは?
迷い、悩み、苦しみのない、日々、生き活きとした生活の実践。

世界と分離した自己(偽の自己=エゴ)は、ここ以外のどこかに楽園があると信じ込み、ここをさけて、あちらこちらを彷徨い続ける。

世界と分離した自己は、今ではない未来に幸福が訪れると信じ込み、今、見えている現実を見過ごし、思考の中を彷徨い続ける。

「幸福を求めるエゴの動きが止まれば、今ここにある楽園(幸福)が見えるようになる。だから、エゴを殺そう」という試みもまた、エゴの動きそのものであり、こうしてエゴは延命を図ろうとする。

もし、楽園(幸福)がここ以外のどこかにあるなら、今ではない未来にあるなら、「私は今、不幸」ということになる。

この私こそが、偽の自己、つまりエゴだ。

あなたは今、椅子か床の上に座って、この文章を読んでいる。

あなたは、ここから未来に触れることができるだろうか?

これまでに未来に触れたことが一度でもあるだろうか?

私たちが触れられるもの、経験できるものは、いつも、今、あるものだけだ。

だから、もし、本当に幸福が未来にあるなら、私たちは、一生、幸福にタッチできないことになる。

この事実に気づくだけで、「分離した自己」も、「私と世界が別々に存在している」という認識も、思考がつくり出したフィクション(作り話)だとわかる。

実際に存在しているのは、今、ここにある生のきらめき=現実。


写真は、今日、散歩中に現れた光景

お知らせ
都内の新型コロナ感染者数が再び増えてきたため、ノンデュアリティ(非二元)プライベートセッションは、しばらくの間、電話またはLINE通話でのみ行っています。