サラリーマンを辞めた頃はどんな本を読んでいたんだろう?
そう思って、書棚にあった鈴木大拙の文庫本を久々に読み返してみると、あまりの字の小ささに文字が読めない。
当時は裸眼で読めたのに、今やハズキルーペをかけても読みづらい。
そこで、同じ本の単行本を図書館にリクエストして取り寄せ、昨日、読み直してみた。
読んでいて、驚いたのは、「非二元」という言葉が出てきたことだった。
私は今、非二元(ノンデュアリティ)についてあれこれ語っているけれど、「非二元」という言葉を、いつどこで初めて聞いたのか、記憶をたどってもまったく思い出せなかった。
しかし、鈴木大拙の本を読み返してみると、「非二元の地」という言葉が出てきて、私はこの本によって「非二元」という言葉に初めて触れたんだと思い出すことができた。
当時の私にとって「非二元」は、本の中に出てきた、たった一つと単語程度に過ぎなかった。
だから、記憶からもすっかりこの単語は消え去っていた。
しかし、記憶から単語が飛んでもなお、この本で語られていた真髄は、この10年消えることなく、私の心をとらえて離れることはなかった。
10年前の私から見れば、10年後の自分が「非二元」について語っているなんて想像さえできなかった。
しかし、10年前に鈴木大拙の本を読み、「非二元」「不二」の真髄に触れることができたからこそ、私の日常生活はこの10年で非二元的(霊性的世界と相対的世界が離れることなく一つであるということ)になり、今、私は非二元について語っている。
そう思うと、鈴木大拙が語った非二元の言葉の影響力は計り知れないものがあると、改めて感じられた。
そして今回、10年ぶりに鈴木大拙の本を読み直して、あらためて私の心に響いた「愛と力」に関する言葉をここに抜粋しておこうと思う。
力の観念は、実在の二元的解釈から必然的に生まれる。二元論が、その背後に統合する原理のあることを認めようとしない時、その生来の破壊的傾向は、奔放に、ほしいままに露呈される。
この力の誇示の最も顕著な一例が、西欧の人々の自然に対する態度にみられる。かれらは自然を征服するといって、けっして自然を友とするとはいわない。かれらは高い山に登っては、山を征服したと公言する。天のかたに向かってある種の発射物を打ち上げることに成功すると、今度は、空を征服したと主張する。なぜかれらは、いまやわれわれは自然とよりいっそう親しくなった、とは言わないのか。不幸なことに、敵対観念が世界のすみずみにまで滲透して、人々は「支配」、「征服」、「管制」等々を口にする。
力の観念は、人格とか、相互依存とか、感謝とか、その他さまざまの相互関係の心を斥ける。
ちなみに、鈴木大拙がこの文章を記したのは、少なくとも80年以上前。
この80年のうちに、われわれ日本人も、西欧の人々と同じように「征服」「支配」の力に翻弄される二元論者になってしまった。
霊性的世界(スピリチュアル)を信じてはいても、日常生活とは別次元のものという二元論の妄信にハマり、ここにある黄金の大地を見失うようになってしまった。
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