瞑想は、非二元の役に立つか? | 非二元|自分を見失わず幸福に生きる「技と知」

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より多くのお金を求めて働く貨幣経済の中で、自分らしく輝きながら、他者と共に幸福に生きる「技と知」を、ライフコーチの矢沢大輔が提案。

「非二元(ノンデュアリティ)に至るのに、瞑想は役に立つか?」というような質問を時々受けるので、今日はそれについて書いてみる。


まず、この質問は、瞑想をやるかやらないかを決めてそれを実行に移せる「自分」がいる、という前提になっている。


また、「非二元」というものが、何かをすることで至りつけるような到達目標のように考えられてしまっている。


瞑想をやるかやらないかを決められるような「私」はいない。

瞑想が起こったなら、それは単に瞑想が起こっているだけで、見かけ上、誰かが瞑想をしているように見えても、それをやっている誰かはいない。


くしゃみをしている人を見たら、その人がくしゃみをしているように見えるけど、個人の意思でくしゃみをしているわけではないのと同じで、瞑想も、くしゃみも、単に起こっていることに過ぎない。


瞑想であれ、ヨガであれ、くしゃみであれ、昼寝であれ、言い争いであれ、それが起こったなら、単にそれが起きているだけで、それを意図的にやっている個人はどこにもいない。


起こったことの全てがワンネスの表現であり、それをやるかやらないかを選択できるような個人の私も、他人も、存在していない。


この事実を、「非二元」という言葉は指し示している。

「瞑想をしたら(原因)、非二元に至れる(結果)だろうか」という問いは、「瞑想を実行できる個人の私がいたなら…」という夢物語から発せられた言葉であり、現実には、瞑想をできるような誰かもいなければ、非二元に至れるような誰かもいない。


そして至りつけるような「どこか」があるわけでもない。


今、起きていることが何であれ、これが全てであり、これ以外のものを探し求めている私は存在していない。


これが非二元。


お知らせ

非二元(ノンデュアリティ)をわかろう、学ぼうとしているなら、それは思考によるゲームが続いているだけです。

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