タラレバ娘はいない。タラレバ思考があるだけ | 非二元|縁起的現象としての「私」

非二元|縁起的現象としての「私」

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人がタラレバの話をするのは、これまでの自分はどこかで間違った選択をしたけど、正しい決断、選択ができるようになレバ、未来はもっと良くなるはず。
という、タラレバ思考によって創られている。

 

タラレバ話のもとになっている前提条件そのものが、タラレバ。

思考というものは、たいてい「タラ」と「レバ」の言葉を用いて記述された物語に過ぎない。

私たちが実際に経験しているのは、物語ではない。

それでも思考は、「あなたがもっとこうすレバ」という条件をつくりだしては、夢物語の中に「私」を誘い込む。

あの時、私が、ああ言わずにこう言っていタラ、今頃、私はこうなっていたはず。


あの時、あの人があんなことをやらなけレバ、今頃、私はこうなっていただろう。


私が、あらゆることに感謝できるようになっタラ、きっと幸運に恵まれるようになる。

私がうまく瞑想できるようになレバ、私はもっとナチュラルに生きられるようになるだろう。  

私がハイヤーセルフとつながれるようになレバ、より直感的に動けるようになるだろう。


私が嫌われる勇気を持てたら、人からの評価を気にせず、もっと自分らしく生きられるようになるだろう。

私がもっとお金を稼げるようになっタラ、お金の心配をせずに優雅に暮らせるようになるだろう。

こうしたタラレバ思考の全てが、「全体から切り離されて、私が個人として存在できタラ、個人の自由意志によって、未来をより良いものに変えられる」という分離の思考によって支えられている。

その空想がどんなものであれ、タラレバ思考そのものには、なんの問題もない。

ただ、自分の未来は、自分の計画や自分の行動(もしくは他人の協力)によって決まり、何をやり何をやらないかを決断しているのは私(もしくは他人)、と疑うことなく信じ込んでいるなら、常に、決断を間違えたら将来が大変なことになるというプレッシャーにさらされ、人生が重苦しくなる。

そして、思い通りに事が運ばなければ、「なぜ、あの時、あんな選択をしてしまったのか」と自責の念にかられるか、相手の行動や決断を非難して、タラレバ思考が止まらなくなる。

でも、決断や選択をしている個人など、実際には存在していない。

見かけ上、その人が自分で決めて行動しているように見えても、それをやるかやらないかを決めた個人の自由意志などない。

見かけ上、その人がタラレバの話をしているように見えても、その内容を考え出している思考の主体者はいない。

タラとレバの言葉によって創作されたおとぎ話が、自然に現れでてきているだけ。

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