塙保己一(はなわほきいち)って誰だっけ? | 乗り鉄親爺の寺巡り

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鉄道大好き親爺が列車や車で、写真を撮りしながら、大好きな作家五木寛之さんの「百寺巡礼」のように全国の寺巡りをしています。

昨日、埼玉県北部をドライブしてきました。

なんとなく車を走らせていると

 

塙保己一生誕の地」の看板が目に留まりました。

 

塙保己一(はなわほきいち)」って誰だっけ?

 

確か中学か高校の時の教科書で見たような。

塙保己一、群書類従」そんなフレーズで

覚えていたような気がします。

 

群書類従?(ぐんしょるいじゅう?)

これもわかりません。

 

ちょっと立ち寄ってみようかな と

本庄市児玉町の

塙保己一記念館」へ。

 

結構立派な建物でした。

 

塙保己一は本庄市が世界に誇る偉人だそうです。

 

延享3年(1746年)に生まれ。

7歳で失明し、

15歳の時に志を抱き、江戸に出て

盲人一座の「雨富検校(あめとみけんぎょう)」の弟子となり

苦学して国学者となりました。

そして、34歳の時に「群書類従」の編纂を決意。

 

以後40数年の年月をかけ

「群書類従」正編666冊を完成させたのだそうです。

群書類従とは

全国に散らばっていた古い記録や資料を集め

それを分類整備して

「666冊」の書物となる一大叢書です。

 

あの時代で、しかも盲目で、

大変な作業であったと想像できます。

 

「群書類従」とはそういう書物だったのか

と初めて理解できました。

 

後にあの三重苦の「奇跡の人・ヘレンケラー」が

来日した時に

「塙保己一」の座像を触りながら

「私は幼いころに、母から日本の塙保己一先生を

手本にしなさいと教えられた」

と語ったそうです。

 

 

記念館を出て、保己一の生家を訪ねました。

こじんまりとした公園に墓所や記念碑があり

 

その隣に

ひっそりと茅葺きの生家が残っていました。

まるでタイムスリップしたように

残っている

塙保己一の生家。

現在も子孫の方がお住まいだそうです。

 

静かに外観を見学させていただきました。

近くに保己一が幼い頃遊んだ寺や神社も

そのままの佇まいで残っていました。

 

昔の学生時代のおぼろげな記憶が

現実のように蘇ってきた

ひと時でした。

 

ほんの気まぐれで

訪ねた施設でしたが

良いものを見せて頂きました。