タイトルが気になり、森公章(もり きみゆき)の『「白村江」以後』(講談社、1998年)を読みました。

 

 

森公章は、奈良国立文化財研究所などを経て、2023年現在、東洋大学教授です。

 

『「白村江」以後』というタイトルですが、内容は、そこに至るまでの外交について語られている部分が多く、「以後」についての記述は少ないです。

 

森は、古代の倭の外交には欠点が目立つと言います。その視点に立って倭の外交面での稚拙さが白村江で敗北した遠因とみています。

形を変えた新しい自虐史観ですね。

 

森は、隋・唐などの中国側に立った視点でしか、物事を捉えていないように思われ、私の考えとは、まったく相容れません。

 

 

本書の第1章 白村江への道では、倭の対中国・朝鮮半島の外交を扱っています。その第1章では、倭の外交は、百済一国中心主義であって、また隋や唐とは対等外交ではないので、それが倭の外交の限界であるとされます。

 

私は、この考えに疑問を感じます。

果たして倭は百済との一国中心主義でしょうか。

倭と朝鮮半島の国々との交流については、斉明元年(655年)の「是歲、高麗・百濟・新羅並遣使進調」の記事を始め、これらの国々とは、斉明や天智の時代を始め、その後もずっと交流があります。

こうしたことから『日本書紀』を読む限り、百済一国中心主義とは思えません。

 

また、遣隋使や遣唐使など倭は隋や唐に朝貢する関係といいます。

『日本書紀』によれば、数回の遣隋使に続いて、舒明二年(630年)には初の遣唐使が派遣され、その後、白雉五年(654年)に続いて、白村江の戦い直前の斉明五年(659年)にも遣唐使が記録されています。

 

森公章は、この遣隋使について、次のとおり対等外交では無いという考えを示します。

 遣隋使の基本的性格も朝貢であったとみなしてよく、国際情勢にうとかったため、国書の書式などで一部齟齬が生じることもあったと理解しておきたい。

 なお、倭は六一四年にも隋に遣使しているが(『日本書紀』)隋末の混乱期であったためか『隋書』には記載されていない。この時期朝鮮三国は隋に遣使しておらず、このことからも滅亡が近い隋にあえて遣使した倭國は、隋の国内情勢に不案内であり、国際情勢に関する情報にうとかったことがわかる。

 要するに、倭国の対隋外交は国際的慣行や国際情勢の把握をあまり重視しておらず、中国文化の摂取等に重点をおいたものであった。先に高句麗の箇所で述べたように、倭国はこの時期、隋と敵対する高句麗からの貢物を受納しており、倭国の外交は、その政治的立場が不明瞭であるということができる。(34頁)

 

遣隋使の基本的性格も朝貢であったとみなしてよく」とは何を以て主張されるのかと疑問に思います。

 

遣隋使については、『隋書』と『日本書紀』では、記事があったり無かったりで錯綜しています。

本書では、『日本書紀』にあって『隋書』に記事が無い614年の例を挙げていますが、逆に『隋書』にあって『日本書紀』に記事がない大業三年(607年)の例については、対等外交を示す明確な記事であると思います。

 

次に該当部分を掲げます。

大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢 使者曰聞海西菩薩天子重興佛法 故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法 其國書曰 日出處天子 致書 日没處天子 無恙云云 帝覧之不悦謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞
大業三年(607年)、その王、多利思北孤は使いを遣はし朝貢す。使者曰く海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞く。故に遣はして朝拝し兼ねて沙門数十人来たりて仏法を学ばむとす。その国書に曰く日出ずる所の天子、書を日没する所の天子に致す。恙なきや云々。帝は之を覧じて悦ばず。鴻臚卿に謂いて曰く、蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれと。

 

その国書に「日出處天子 致書 日沒處天子 無恙云云」とあって、ここでは自らを「日出處天子」といい、文帝(国書受け渡し時は、605年即位の煬帝)を「日沒處天子」といい、対等の位置づけになっています。ですから、「遣隋使の基本的性格も朝貢であったとみなしてよく」とは何を以て主張されるのか、まったく疑問です。森公章は、自らの主張が適切であるとするために、この多利思北孤の国書の件を無視されているようです。フェアな記述ではありませんね。

なお、森公章は「倭国」と記しますが『隋書』では、正確には「國」です。

 

また、「国際情勢にうとかったため、国書の書式などで一部齟齬が生じることもあった」とありますが、そうではなく、俀と隋では立場が異なるので、隋の立場から、「蛮夷の書に無礼あり」と記されているのですが、俀からすれば、隋とは対等と考えていますので相互に「天子」という当然の国書の内容となっています。何でも隋を中心とした考え方はやめた方がよろしいですね。『隋書』はあくまでも隋の立場で書かれています。もう少し自国の俀國のスタンスも踏まえて歴史を捉える必要があります。

 

 

七世紀当時、日本列島には、倭國と日本國が共存していました。

『旧唐書』『新唐書』に記載のとおり、倭國・日本國が共存し7世紀末になって併合されます。

森公章は、俀(倭)國と日本國が同時に日本列島に存在していたとの認識をしっかり持っていないので、多利思北孤(タリシホコ)について、どうして『隋書』にのみに記事があって『日本書紀』に書かれていないのかと訝(いぶか)しげに述べています。

このことについて多利思北孤(タリシホコ)は、『日本書紀』に掲げられる日本國の大王ではなく、俀國の大王と理解すれば森の疑問はすんなり解消します。

 

『日本書紀』の記事は、日本國の立場で記されており、倭國の歴史である多利思北孤については書けなかった、もしくは書かなかったのだと理解できます。

 

ところで、本書では、『隋書』の原文にある「多利思孤」に従わず、通説の「多利思孤」と記しているのはいただけません。森公章は原文の記述に徹していない学者ですね。私ならば原文どおり「多利思孤」をそのまま使用します。

「多利思比孤」を使用するならば、一言「原文には多利思孤とあるが、以下、通説に従い多利思比孤に統一して述べる。」とでも断り書きを付すべきでしょう。

 

 

本書では、遣唐使の関係について、次のように言及されます。

 倭国と唐との通交は、六三〇年の、第一回目の遣唐使派遣をその嚆矢(こうし、*物事の始まり)とする。やはり、三国に比べると、対応は遅いといわざるをえない。(36頁)

 

こうした倭の対応が遅いとの決めつけは正しい認識とは思えません。

唐への遣使が半島の国々より遅いから、それがどうしたのかといいたいです。遣使の時期は、他国に迎合するのではなく自国が決めることです。

遣唐使の派遣時期について、外交とは一方的なものではなく必要に応じて交流するものですから、対応が遅いのでも国際情勢に疎いからでもなく、唐との交流が必要な時期に、遣唐使の派遣と遣倭使の派遣が相互に、また同時期に行われたと考えるべきでしょう。

 

倭は、唐の冊封体制を拒否し独立した姿勢を保っており、毅然とした外交です。

隋や唐の皇帝から冊封を受けている朝鮮諸国に対して、倭國は優位性を示そうとしていたと考えられ、地政学上も、半島にある国々のように拙速に遣使を送る必要もありません。

 

さらに、第1章では、「任那日本府」について、本国とのつながりはなかったと断定しています。任那は長期にわたり半島に存在し倭國は任那と関係が深いので、根拠が無いままに、つながりがないと断言するのはやめるべきです。「断定」は読者を惑わします。

 

『日本書紀』の欽明天皇(在位-571年)紀には、「任那日本府」が記されています。ただし、日本國が外交の中心となるのは8世紀からであり、6世紀当時は倭國が外交の中心なので、「任那日本府」の実体は、倭國の出先機関でしょう。

『日本書紀』は、あくまで日本國の立場で記されているものですから「日本府」と書かれています。

 

紀元前4世紀ごろ弥生時代中期における朝鮮半島では、任那となる地域に、弥生土器(弥生式土器)が急増し倭人の存在が認められます。

3世紀の倭は、朝鮮半島と北部九州に跨がる海峡国家です。

5世紀の『宋書』倭国伝には、倭王武の自称「使持節都督 倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事 安東大将軍 倭国王」や「北の海を渡りて平らぐること九十五国」とあるように任那が倭國の管轄にあったと記されています。

7世紀の『梁書』にも任那が記されており、3世紀から7世紀の倭國は、北部九州を中心とした国家ですから、任那日本府が、倭國の管轄下にあるのは明確です。

 

さらには、敏達四年(575年)や推古三十一年(623年)の「任那の調」、本書でも触れられている大化二年九月条(646年)の「任那調の取り止め」、そして白雉二年是歳条(651年)の「新羅使の唐服着用への批判」については、倭が、百済や新羅の国々を倭國の属国と見なしているためであって、倭國への貢物を徹底させ、唐服を着用させないとする倭國の意思があらわれています。これらは森が指摘するような倭國が国際情勢の変化にうといのではなく、倭國自らの独自性や優位性を傘下の国々に示しているものと思います。本国とのつながりが無ければ、このような「任那の調」にかかわる一連の経緯はないでしょう。

 

ですから、「(任那日本府は)本国とのつながりがなかった」という森公章の決めつけは、全くおかしいと思います。

 

森は、倭國から任那日本府に直接使者を派遣することは無かったなどとしています。

しかし、欽明紀には「・・・任那日本府吉備臣闕名字、往赴百濟、倶聽詔書」(・・・の役人らは、任那日本府の吉備臣(名字を欠く)と百済に何度も赴き、ともに詔書を聴きました。)とあります。

この吉備臣はその名からして倭から派遣された人物でしょう。

 

要するに、本書の第1章「白村江への道」における認識、すなわち、白村江の戦をテーマにした七世紀後半の東アジアの国際情勢や日本の外交方策の捉え方には、大きな違和感を感じます。

 

 

 

本書の第2章 百済の役では、百済滅亡から白村江の戦いまでを扱っており、第3章 律令国家「日本」の成立では、第1章で倭國が後進性を痛感したので、国家体制の整備、対唐防衛綱の構築、官僚制整備や律令国家への道を歩むというストーリー展開になっています。通説に従った物語の展開ですね。

 

そして、白村江の戦いについては、「兵力・装備、作戦、どの面をとっても倭軍には到底勝ち目がなかった」(148頁)としています。

 

しかし、唐・新羅軍に倭の領地を侵略され、その戦いに負けたのではありません。

百済復興の支援のために朝鮮半島に出向き戦いに臨んだのであって、森公章が現在の日本の外交政策の批判のために、古代の倭の外交政策が失敗であるかのように強調するのはなんだか偏見のような気がします。現在と古代は分けて考えるべきですし、古代の倭は、外交を失敗していると捉えるのではなく、隋や唐と対等の立場で交流していると捉えるべきと思います。

 

白村江の戦いをあまり誇大かつ深刻に捉えてはなりません。劉仁軌の主張に従えば、倭が朝鮮半島に出向いた2日間の戦いに負けて、半島から撤退したというだけじゃないですか。

 

『旧唐書』劉仁軌伝にのみ倭兵が登場しますが、書かれたのは、劉仁軌自らが盛って主張した手柄が記されているに過ぎないように思われます。

 仁軌遇倭兵於白江之口 (『旧唐書』劉仁軌伝)

 

というのも『新唐書』高宗本紀には、百済を負かした記事はあっても倭に勝利した記事は皆無です。また、『旧唐書』高宗本紀では白江に関する記事そのものがありません。

(龍朔三年)九月戊午 孫仁師及百濟戰于白江敗之  (『新唐書』高宗本紀)

龍朔三年(663年)九月九日、孫仁師(唐の将軍)は百済におよび白江にて戦いこれを敗す。


つまり、唐は、白江(白村江)で百済を負かしたと考えてはいるものの、それを支援した倭の勝敗について関心があるわけではありません。冷静に観れば、日本の学者は自意識過剰では無いでしょうか。いずれにしても、唐の主眼は、百済復興を潰したということです。これにより高句麗へ戦力を注ぐことになります。

 

さらに、森は、白村江の戦いの船の大きさについて、倭軍は小舟にすぎず、唐軍は大型船と決めつけるのも不自然な感じがします。河口では大型船の方が身動きがとれないような気がします。いかがなものでしょうか。

本書のスタンスはいずれも一事が万事こうした決めつけの上に書かれたストーリーであって、私には的確な記述とは思えません。

 


扶余豊璋に関する記述については、「政治的資質の欠如をうかがわせる養蜂の失敗と、白雉改元の際の学識披露をあわせてみると、豊璋は元来温厚で気が弱く、政治的志向を強くもたないが、自負心のある優れた学者・文人タイプの人物と想定される。」とした一方で、鬼室福信については「戦闘を好み、戦略家・豪傑タイプ」であるとして相容れない部分があったことが百済復興を果たせなかった要因とされています。

 

彼らの性格についてはあくまで森公章の想像に過ぎないのでなんとも言えませんが、鬼室福信は、百済の佐平(将軍)ですから軍事の専門家です。結果から見ると、豊璋が鬼室福信を殺害したことが百済敗戦の原因とみることが出来ます。

ただ、鬼室福信の排除は、新羅王・金春秋などによる企てがあったのではないかとも思えます。先に紹介した荒山徹の『白村江』では、たしか反・鬼室福信の僧兵が殺害したという物語になっていましたね。

 

 

最後に、注目すべき白村江の戦後に関してです。

本書では、対唐防衛綱の構築や国家体制の整備について言及しています。

 

白村江の戦後における山城の築造や遣倭使の来訪など臨戦的緊張感については、あくまで『日本書紀』の中で記述されていることです。そうした意識が森公章には欠如しているようです。遣倭使については、唐の新羅戦において倭を取り込むためのものと思われます。次のとおり既に示していますので、ここでは割愛します。

白村江の戦後 唐の羈縻(きび)政策

白村江の戦後 遣倭使

 

私は、大宰府を取り囲む水城や山城の配置状況から、水城や山城は、北部九州の倭國の首都・大宰府を守るための防衛施設であって、水城の築造年代が3世紀に遡る科学的な調査結果などから、白村江の戦い以前から築かれていたものと考えています。しかも、唐や新羅に対する防衛施設という位置づけのみならず、対馬の金田城とともに屋嶋城等が同時期に築かれており、東からの日本国軍による万一の軍事侵攻にも備えて築かれたと考えます。

 

 

この山城の配置については、北部九州に集中するとともに、瀬戸内海に点在します。この配置をみてヤマト防衛とすると、おかしいと疑問に思うことがありますね。

唐軍がヤマトを攻めるのに、わざわざ狭い関門海峡を経て、瀬戸内海を通りますか。

唐軍は瀬戸内海を通るというような画一的な考えはまったくおかしいと思います。

日本海側からヤマトを攻める場合も大いに考えられるでしょう。

 

他方、大阪湾の難波津から北部九州を中心とする倭國へ軍事侵攻するならば瀬戸内海を使用するのは必至ですから、それならば、倭國は、これを警戒・監視するために瀬戸内海に山城(烽・とぶひ)を置くのも頷けます。

 

倭國は、白村江の戦い以前から、対日本國を目的に瀬戸内海に山城を築城したとするほうが私は理に叶っているように思います。

 

本書は『「白村江」以後』との著書名ですが、内容は白村江の戦いに至るまでの外交に記述の多くがさかれ、それに比べ「戦後」の記述は貧弱な感じを受けました。

私の考えとは違った発想もあるなかで「戦後」の内容に期待がかかりましたが、「戦後」の状況は通説に従う記述であり、やや拍子抜けという印象でした。