遣唐使は、倭が唐に送った使者ということで皆さんがよく耳にする言葉ですが、唐側から倭に送られてきた使者については、適当な用語が決まっていないため、私はこれを「遣倭使」と名付けています。

 

「遣倭使」の話の前に、再度、ここに登場する人名を整理しておきます。

劉仁願・・・唐の軍人。蘇定方の部下。泗沘サビ城に留鎮。州柔城を陥落。

      白江の戦後、百済鎮将として熊津都督府に再来。書紀によれば郭務悰ら

      を「遣倭使」として派遣。『新・旧唐書』にその名が登場。

劉徳高・・・『新・旧唐書』には登場しない人物。熊津都督府の半島人と思われる。

郭務悰・・・大使朝散大夫上柱国。熊津(ユウシン)都督府の将軍。「上柱国」とは戦功のある将軍級の者。熊津都督府の半島人と思われる。

禰軍(でいぐん)・・・百済の軍人。百済の将軍最高位の佐平。先祖の出自は中国。百済滅亡後は唐に仕えたが、後に熊津都督府に派遣。

*2011年に西安で発見された禰軍墓誌に「于時日 夲餘噍 拠扶桑以逋誅」とあります。ところが、最初の2文字をカットして、「」を「」に書き換えて、いわゆる「切り取り」「改ざん」を行い「日本餘噍 拠扶桑以逋誅」と記して「日本」の国名の初の記録だと朝日新聞が報じました。それに追随される「専門家」がいますが、間違いであると思います。最初の2文字をカットしなければ、これは「于時日 夲餘噍 拠扶桑以逋誅」であって、その意味は「この時にあたり、当該(百済)の残兵は、扶桑(日本)に拠りて誅(死刑)を逃れる」ですから、日本の国名初出の金石文ではありません。詳しくは「禰軍墓誌」 論理をすり替えない <古代史は面白い>

をご覧になってください。

 

 

さて、具体的に、「遣倭使」の状況を見れば次のとおりです。

 

(1)第一回遣倭使(664年)

『日本書紀』には、白村江の戦いが終わった後の、天智三年(664年)に「夏五月戊申朔甲子 百濟鎭將劉仁願 遣朝散大夫郭務悰等 進表函與獻物」とあります。百済鎭將の劉仁願の命令で半島人の郭務悰が表函(ふみひつ)と獻物(けんもつ)を持ち、来日したと述べます。郭務悰は百済の熊津(ユウシン)都督府から派遣されたと思われます。

 

日本最初の外交史の書として知られる『善隣国宝記』の天智天皇三年(664年)の記事には、対馬に来た唐の大使という名目の郭務悰や百済佐平の禰軍(でいぐん)に対して、入京の是非を検討した結果、劉仁願が派遣した使節は、私使であって唐の皇帝の公の使人ではないという理由で帰還させています。

 

『善隣国宝記』巻上 天智天皇三年条

海外国記云曰、天智天皇三年四月、大唐客来朝、大使朝散大夫上柱国郭務悰等三十人・百済佐平禰軍等百余人、到対馬島、・・・・告客等、今見客等来状者、非是天子使人百済鎮将私使、亦復所賚文牒、送上執事私辞、是以使人不得入国

海外国記伝が言うには、天智三年(665年)に唐の客が来朝し、郭務悰等三十人と百済佐平の禰軍等百余人が対馬に到着し、・・・これらは天子の使人ではなく、百済鎮将は私使であって、また奏上文なども私辞であり入国は得られず。

 

この記事は、郭務悰等を「倭國への使人」としてでは無く、「日本國への客」という位置づけですから、当然私的と捉えてもおかしくありません。この記事が正しいとすれば、こうした日本側の対応は、まるで戦勝・敗戦の関係とは相容れません。

 

ですから内容については日本側の立場で書かれたもので信頼性が劣ると思われます。この『善隣国宝記』の記事には、九州の倭國には正式に来訪しましたが、ヤマトには来訪しなかったために、幾分、僻み(ひがみ)が入っているのかもしれません。作り話の感じがします。

 

唐は朝鮮半島を治めるために、熊津都督府を設けて、百済最後の王である義慈王の太子である扶余隆を熊津都督に任命するなど、熊津都督府に百済人を採用しています。つまり熊津都督府は、名目は唐の機関ですが、実態としては百済人など半島人で組織されていると考えられます。

 

郭務悰が表函(ふみひつ)と獻物(けんもつ)を持ち来日した記事を否定するだけの確実な証拠もありませんので、郭務悰らの来訪は事実と考えられます。半島人である郭務悰らは、武力で強行するのではなく懐柔的・協調的な姿勢なのであろうと思います。

 

(2)第二回遣倭使(665年)
第二回遣倭使として、書紀の天智四年(665年)条によれば、第一回の翌年には唐の朝散大夫沂州(ぎしゅう)司馬上柱国劉徳高郭務悰らを伴いながら筑紫に至り表函(ふみひつ)し、倭は劉徳高等をもてなし賜物をもたせて送使を付けて送ったとあります。中国史書に劉徳高の記事はありませんので劉徳高は半島人と思われます。百済禰軍がその墓碑銘から百済人であり、三番目に記された郭務悰も百済人の禰軍の後に記されているので、やはり熊津都督府の役人で百済人である可能性が高いと思われます。この二回目の劉徳高らの遣倭使は254人という人数ですので、武力による威嚇のための軍団ではなく、協調的な使節団ではないかと思われます。

 

(3)第三回(669年)と第四回(671年)の遣倭使
書紀は第三回の遣倭使について天智八年(669年)是歳条に「又大唐遣郭務悰等二千餘人」として郭務悰ら二千人の渡来を記しています。
さらに、第四回の遣倭使としてその2年後の天智十年(671年)に郭務悰ら二千人が74隻の船に乗って朝鮮半島の南に位置する比智嶋(巨済(コジェ)島南西の比珍(ビジン)島か)に来て来日しようとしているという記事があります。

唐國使人郭務悰等六百人・送使沙宅孫登等一千四百人、總合二千人乘船卌七隻、倶泊於比智嶋、相謂之曰、今吾輩人船數衆、忽然到彼、恐彼防人驚駭射戰。乃遣道久等預稍披陳來朝之意。

唐國の使人郭務等六百人、送使の沙宅孫登等一千四百人、すべて合わせて二千人、47隻に乗船し、そろって比智嶋に泊り、両人が語り合って言うには、今われらの人船は数が多いから、忽然と彼の地に到れば、おそらくは、対馬の防人は驚き、射て戰うことになる。そこで道文等を遣わして、あらかじめ少しだけ來朝の意向を示すとしようと。

 

2000人の軍団だとすると脅威に感じますが、この人数の内訳を見ると雰囲気が違ってきます。

 

この2000人のうち、郭務悰が引率する600人は、対馬の防人(さきもり)が驚いて戦いになってもおかしくないと伝えていることから兵士?と思われます。しかし倭を武力によって攻撃するための兵士とは考えられません。というのも郭務悰らは、多くの船で突然やって来ると対馬の防人と戦いになってしまうので予め来日する意向を示すという紳士的な方法をとっており、戦いを避けて修好を結ぶ意思があります。

 

また、2000人のうち沙宅孫登(さたく そんとう)が引率する1400人は、斉明紀六年(669年)に沙宅孫登が唐に捕虜となっていた倭人百余人を連れてきた記事がありますので、この1400人は唐の捕虜や難民のようです。したがって、この使節団は、捕虜や難民を送り届けるとともに倭に六百人の軍人を駐留させる役割があったと考えられます。あくまでも『日本書紀』の記述が正しいとすればです。

 

万一、筑紫都督府の設置や筑紫都督の任命があったならば、特筆すべき事項であるので、他の国々と同様に中国史書に倭の都督府や都督に関する記事がなければなりません。しかし、『旧唐書』『新唐書』ともに倭に都督府の設置や都督任命の記事がありませんので、それらの史料事実を踏まえれば、倭に筑紫都督府は置かれず、都督も任命されなかったことになります。重要なポイントです。

前回の白村江の戦い 本来の目的において、旧高句麗、旧百済、旧新羅の各々の事例を挙げて具体的に示していています。

 

中国史書には、德高や徳高の名は登場しても、劉徳高の名は登場しません。

また、郭務悰の名も登場しません。日本側のみにある記事で中国史書など他に客観的な資料がないために本当のところはわかりません。書紀の記事が正しいものとすれば、その「遣倭使」の実体は、朝鮮半島在住の熊津都督府の半島人(百済人)であり、その半島人(百済人)に任せた協調的な政策と考えられます。

 

つまり、唐軍が倭國を占領した事実はありませんから、日本の「専門家」が主張するような、唐による倭の軍事統治はありません。

 

ひょっとすると郭務悰が引率した600人は、倭國の山城を築造・修復をするための専門集団なのかもしれません。