「白村江の戦い 唐の目的」にも掲げたとおり、日本の学者は、劉仁軌伝を根拠として、倭國大敗と思い込んでいるようです。その度合いがどの程度かは重要で、倭船は壊滅してしまったのでしょうか。
話を始める前に、登場する人物を整理しておきます。
百済戦に関係する登場人物としては、
扶余義慈・・・義慈王。義慈王の王子は、孝・泰・隆・演・豊・勇の6名。
扶余孝・・・百済滅亡時の太子。
扶余泰・・・義慈王や扶余隆が逃走し泗沘城を蘇定方に包囲際された際に王を称す。
扶余隆・・・義慈王の最初の太子とされる。
扶餘豐・・・扶余豊璋。人質として倭國滞在中に唐・新羅に滅ぼされた百済を復興す
るために帰国。敗戦後高句麗へ亡命したが捕らえられ幽閉された。
扶余勇・・・善光。倭國にとどまる。百済王氏。
劉仁軌・・・唐の軍人、白江の戦いでは水軍。
顕慶5年(660年)の遼東征伐において、兵糧船を転覆させ降格処分を受
けた。名誉挽回のために志願して百済戦の支援に出向き奮起した。倭船
400艘を焼き勝利した。
孫仁師・・・唐の軍人。白江の戦いでは陸軍の将。
蘇定方・・・唐の軍人。泗沘城を包囲し百済を平定した。水陸軍の前線部隊の大将。
劉仁願・・・唐の軍人。蘇定方の部下。泗沘城に留鎮。州柔城を陥落。
白江の戦後、百済鎮将として熊津都督府に再来。書紀によれば郭務悰ら
を「遣倭使」として派遣。
金春秋・・・新羅の第29代武烈王。水軍。蘇定方とともに百済を討ち平らげた。
金法敏・・・新羅の武烈王の長子。陸軍。第30代新羅王の文武王。
『旧唐書』劉仁軌伝の一部を再掲します。
『旧唐書』劉仁軌伝
仁軌遇倭兵於白江之口 四戰捷 焚其舟四百艘 煙焰漲天 海水皆赤 賊眾大潰 餘豐脫身而走 獲其寶劍
劉仁軌は、白江の河口で倭兵と遭遇した。4回の戦いに勝ち倭の400艘の舟を焚いた。煙と炎が空一面をおおい海は赤く染まった。賊衆は大いに潰れ余豊(扶余豊璋)は脱出して逃走した。(百済の)宝剣を奪った。(訳文はすべて泉城による)
その後、百済最後の王である義慈王(扶余義慈)を始め、逃走したその王子の扶余豊璋らは降伏し百済は滅亡しました。
唐としては、高句麗を攻撃してきたけれども勝てないので、先にまず高句麗の同盟国である百済を滅ぼして、高句麗の背後を抑える計画です。そのために百済へ唐軍を送ったのです。
『旧唐書』新羅國伝では、水陸合わせ10万、さらに新羅の金春秋(第29代武烈王)の軍と併せ百済を討ち百済王の扶余義慈を捉えたとあります。ただし、ここには蘇定方は登場するものの、水軍である劉仁軌が登場しません。
(なお、「蘇定方」はときに「蘇」を略して「定方」と書かれます。これ中国史書等の通例です。)
『旧唐書』新羅國伝
顯慶五年 命左武衛大將軍蘇定方 爲熊津道大總管 統水陸十萬
顕慶五年(660年)、左武衛大将軍蘇定方に命じて熊津道大総管と為し、水陸十万の軍を統率した。
仍令春秋爲嵎夷道行軍總管 與定方討平百濟 俘其王扶餘義慈 獻于闕下
かさねて、金春秋を嵎夷道行軍総管に令して為し、蘇定方とともに百済を討ち平らげ、其の王の扶余義慈を俘虜(いけどり)にし闕下(けっか、天子の御前)に献じた。
また、『新唐書』蘇定方伝には、蘇定方の軍により百済の死者が数千人あったとあり、その後も、蘇定方の軍は勝利し、百済は平定されたとあります。
『新唐書』列伝 蘇定方
定方出左涯 乘山而陣 與之戰賊敗死者數千
蘇定方が左岸から出撃し山を利用して陣を張って戦い、賊は敗し死者数千人。
定方使士登城 建唐旗幟 於是泰開門請命 其將禰植與義慈降 隆及諸城送款 百濟平 俘義慈 隆 泰等獻東都
蘇定方の使者が城に登り唐の旗を建て、是により扶余泰は扉を開け命を請う。その将軍禰植と義慈は投降し扶余隆及び諸城は送款(降伏)し百済は平らげられた。俘虜の扶余義慈・隆・泰らを東都に献上した。
同様の記事は『三国史記』にもあり、蘇定方の軍により百済軍は大敗したとあります。ここにも劉仁軌は登場しません。劉仁軌は水軍だからでしょう。
『三国史記』百済本紀 義慈王
定方出左涯 乘山而陣 與之戰 我軍大敗
蘇定方が左岸から出撃し山を利用して陣を張って戦い我が軍(百済軍)は大敗した。
したがって、百済戦の最終決戦は、泗沘城を落とした水陸軍の蘇定方によるものであり、劉仁軌による白江における水軍の戦いの記事は、その百済戦の一部のようです。
<再掲>
『旧唐書』劉仁軌伝
仁軌遇倭兵於白江之口 四戰捷 焚其舟四百艘 煙焰漲天 海水皆赤 賊眾大潰 餘豐脫身而走 獲其寶劍。
『新唐書』劉仁軌伝
遇倭人白江口 四戰皆克 焚四百艘 海水為丹 扶餘豐脫身走 獲其寶劍。
『新・旧唐書』劉仁軌伝では、400艘を燃やしたとあります。
いかにも400艘が全てのように思い込んでいる「専門家」がいますが、白江の戦いで400艘が倭船の全てであったかというと、そうではありません。
『三国史記』新羅本紀文武王伝には、「倭船千艘」とあります。
したがって、『三国史記』新羅本紀と『旧唐書』劉仁軌伝の記事を共に信用すれば、倭船1000艘のうちの400艘、4割が燃えたことになります。
『三国史記』新羅本紀文武王
(龍朔三年)倭國船兵 來助百濟 倭船千艘 停在白江 百濟精騎 岸上守船
(663年)倭國の船兵が百濟を助けにきた。倭船千艘が白江に停泊し、百済の精鋭は岸から倭船を守った。
唐将である孫仁師、劉仁願、新羅王である金法敏(文武王)の陸軍と対峙していた倭軍ですが、ここに白江の戦いで勝利した唐・新羅水軍が到着し扶余豊璋の百済軍と倭軍を挟撃し、唐・新羅陸軍が勝利しました。
倭は、甚大な被害を被ったわけですが、全滅したわけではありません。
倭の立場からすると、百済は倭の同盟国(見方によれば倭の属国)であったために、朝鮮半島へ出かけ百済を援護しましたが、義慈王(扶余義慈)が捉えられ百済は滅亡してしまいました。
白江の戦いの舞台は百済であるということをあらためて認識しておく必要があります。
この百済の滅亡は、高句麗を攻める第一段階であり、次に唐が目指すのは高句麗なのであって、倭を傘下に治めることなど眼中にありません。唐の目的は高句麗の脅威を取り除くことです。
朝鮮半島を巡る状況を見る限り、日本の学者は、劉仁軌の記事から「倭國大敗」を真に受けすぎではないでしょうか。
さらに、この「大敗」を根拠に、唐・新羅が倭を攻め込み「倭國占領」を企てるはずだとします。しかし、唐が下手に動けば、高句麗に逆襲を食らう恐れもありますので、唐・新羅軍が倭に攻め込んでくるとは、とても思えません。
唐にとって、海を隔てて唐の直接の脅威となっていない倭を攻めるより、唐に隣接し、その国境を犯している高句麗を脅威として攻めるでしょう。
何のために百済を滅ぼしたかと言えば、高句麗を討つためであり、唐の目的をしっかり認識すると唐の倭に対する関心度は低いと思われます。
唐の目的は高句麗を討つこと、それは、その後の戦後処理として、倭に来訪する唐側の使者「遣倭使」(泉城の名付け)のメンバーや使者の倭に対する姿勢の状況をみてもよくわかります。次は、「遣倭使」の状況を探ります。