白村江の戦いについて、まず先入観を無くしましょう。

唐の史料はあくまでも唐の側に立って書かれた史料であるとしっかり認識すべきだと思います。場合によっては唐の政治家や軍人の自己主張でもあります。

 

当たり前のことを言うなと思われるかもしれませんが、白村江の戦いについて、倭國は大敗したので、唐の占領を防ぐために防衛施設の山城を各地に築城したということになっています。

 

倭國大敗・倭國占領、これらは本当ですかと私はとても疑わしく思います。

まずは、倭國大敗について調べましょう。

 

「白村江の戦い」について、『旧唐書』では、白江の河口で倭兵と遭遇し、4度の戦いに勝利し、400艘の倭の船を焼き尽くしたという話がでてきます。ただし、それは、『新・旧唐書』劉仁軌伝『新・旧唐書』百済伝に書かれていることです。百済伝は劉仁軌伝の記事のほぼ焼き直しですから、もともとは、劉仁軌の報告(言い分)に従って記されたものと考えられます。

 

新・旧の劉仁軌伝では、「倭兵」「倭人」が強調されています。

『旧唐書』劉仁軌伝

仁軌遇倭兵白江之口 四戰捷 焚其舟四百艘 煙焰漲天 海水皆赤 賊眾大潰 餘豐脫身而走 獲其寶劍。

『新唐書』劉仁軌伝

倭人白江口 四戰皆克 焚四百艘 海水為丹  扶餘豐脫身走  獲其寶劍。

 

ところが、新・旧の百済伝では、「百済王の扶餘豐」が前面にでており、『新唐書』には倭人の命乞いが書かれているものの、夫余豊の逃走がポイントのようです。

『旧唐書』百済國伝

仁軌遇扶餘豐之眾白江之口 四戰皆捷 焚其舟四百艘 賊眾大潰 扶餘豐脫身而走

『新唐書』百済伝

豐眾屯白江口 四遇皆克 火四百艘 豐走 不知所在 偽王子扶餘忠勝 忠志率殘眾及倭人請命 諸城皆復

 

 

さらに、『新唐書』高宗本紀では、百済敗戦の記事はあるものの、倭の敗戦は記されていません。また、『旧唐書』高宗本紀では白江に関する記事そのものがありませんから当然、倭國敗退の記事もありません

 

『新唐書』高宗本紀

龍朔三年(663年)九月戊午 孫仁師及百濟戰于白江 敗之

『旧唐書』高宗本紀

白江の記事そのものがありません。

 

本紀の記述状況からすれば、唐からすると、白江での戦闘で敵兵を退けたものの、倭國大敗に焦点があるのではなく、百済を大敗させて滅亡に追いやったという点が重要であるとの認識と思われます。