昨年の今ごろには、「祢軍墓誌」(でいぐんぼし、大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序)を話題に取り上げました。
「祢軍墓誌」(でいぐんぼし)の話です | 泉城の古代日記 コダイアリー
「祢軍墓誌」(でいぐんぼし)に刻まれた「于時日夲餘噍,拠扶桑以逋誅」の
「日夲」は、金石文による日本国の国名の初出であるとする考えが大勢です。
これについて、「祢軍墓誌」にある、「官軍平、夲藩日」の記述と対比すると、
「于時日、夲餘噍」と区切るべきとの考えから、
日本の国名ではないとお話ししました。
「夲」の文字は、もともと「本」の旧字ですね。
中国史書においては、「夲所」、「夲寺」など、「本」の俗字として、
「夲」の字を使用する例はみられます。
ただ、「夲」と「本」の発音はそれぞれ「Tāo」、「Běn」であって違います。
日本では「夲国・夲日・夲人・夲年」などで使用されます。
ですから、一般論として、多くの研究者は、
「本」と「夲」は同じ文字として、「日本」と「日夲」は同じだと短絡的に考えるのですね。
しかし、この「夲」は、先に示した「夲所」、「夲寺」などのとおり、
「当該の、当の」を意味します。
ですから、「夲」は「本」の俗字というだけで、
「日本」をあらわすとはいえません。
一般論として同じ文字といえるだけであって、具体的ではありません。
具体的な記事を一般論で片付けようとするのは、
論理のすり替えです。
記述してある文章を理解せずに、一般論で済ませる姿勢は、
私の探求の姿勢とは全く相容れません。
また、「日本」と読んで「百済」と解釈する説もありますが。
まったく論理的ではありません。
私に言わせれば、メチャクチャで、ご都合主義な説です。
論理をすり替えずに、
正面からまじめに取り組みたいものです。
1年が経過してあらためて意を強くしました。
*****************************************************
さて、問題は、この墓誌の記述にある、「于時日夲餘噍,拠扶桑以逋誅」を
どのように理解するかです。
「祢軍墓誌」の話について、もう少しだけ、お付き合いいただけますか。
「祢軍墓誌」は、唐の高官であった祢軍(でいぐん)の墓誌です。
私が問題にしているのは、
この「祢軍墓誌」に「夲」が3回登場します。
そのうち対比させる事例を2例、取り上げます。
ひとつは、①「去顕慶五年,官軍平夲藩日,見機識変」です。
もうひとつが、問題の②「于時日夲餘噍,拠扶桑以逋誅」です。
①については、
「去る顯慶(けんけい)五年(660年)、官軍本藩を平ぐ日、機を見て變を識る」
ですから、
「官軍平,夲藩日」については、
唐の官軍が当該の藩(百済の領地)を平らげた日に
を意味しています。
要するに、
「夲」は「当該の」という意味で、すなわち、当該は百済を指しています。
次に、問題になっている、②「于時日夲餘噍,拠扶桑以逋誅」です。
前半の「于時日夲餘噍」は、「于時日」と「夲餘噍」で区切ります。
「于時日、夲餘噍」ですね。
「于時日」は、「この時日に」という意味であり、
もう少し言葉を熟(こな)れたようにすれば、「このときにあたり」です
そして、「夲餘噍」は、「当該(百済)の残兵」の意味です。
すなわち、「于時日夲餘噍,拠扶桑以逋誅」の記述を読み下せば、
「于時日」、「夲餘噍」、「拠扶桑以逋誅」と区切り、
「このときにあたり、当該(百済)の残兵は、扶桑(日本)に拠りて誅(死刑)を逃れる」
です。
従来の学者は、
「于時」、「日夲餘噍」、「拠扶桑以逋誅」と区切り、
「ときに、日本の残兵は、扶桑(日本)に拠りて誅(死刑)を逃れる」
と理解されています。
でも、この従来の理解は、まったくおかしいですね。
なぜなら、この「祢軍墓誌」は、唐の将軍である祢軍が百済をやっつけたという、
祢軍の功績を高らかに歌っているものだからです。
百済の残兵が日本に逃げたという私の理解であれば、その功績はよくわかりますが、
日本の残兵が日本に逃げたの意味では、百済を平らげた成果とは全くそぐわないでしょう。
以前に大枠の把握が大事だと言いました。
大枠の把握から始めましょう <古代史は面白い> | 泉城の古代日記 コダイアリー
顯慶五年(660年)は「百済の役」で唐が百済を平らげたときです。
百済の敗北は、祢軍が唐に下った契機です。その時には日本は関わりがありません。
倭(日本)が参戦したのは、663年の「白村江の戦い」からです。
ですから「百済の役」に、日本の残党がいるわけがないのです。
この墓誌では「于時日夲餘噍,拠扶桑以逋誅」と記述して、
日本のことを「扶桑」と書いているじゃないですか。
この墓誌において、日本国のことを示すのであれば、
「日夲」ではなく「扶桑」ですよ。
大枠を把握しないと、この記述が、
日本国の国名の初出というような頓珍漢な説になったり、
「日夲」と書いてあるが百済だと解釈するという非論理的な説に
なります。
以下、吟味されたい方の参考のために、「祢軍墓誌」の内容をメモしておきます。
(読み下しは、泉城による)
大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序
公諱軍,字温,熊津嵎夷人也。其先與華同祖,永嘉末,避亂適東,因遂家焉。
若夫巍巍鯨山,跨清丘以東峙;淼淼熊水,臨丹渚以南流。
浸烟雲以樆英,降之于蕩沃;照日月而榳惁,秀之于蔽虧,霊文逸文,高前芳于七子;
汗馬雄武,擅後異于三韓;華構増輝,英材継響,綿圖不絶,奕代有聲。
曽祖福,祖誉,父善,皆是本藩一品,官號佐平。併緝地義以光身,佩天爵而懃國。
忠侔鉄石,操埒松筠。笵物者,道徳有成,則士者,文武不堅。公狼輝襲祉,鷰頷生姿。
涯濬澄陂,裕光愛日,干牛斗之逸気,芒照星中;博羊角之英風,影征雲外。
去顕慶五年,官軍平夲藩日,見機識変,杖剣知帰,似由余之出戎,如金磾之入漢。
聖上嘉嘆,擢以榮班,授右武衛滻川府折沖都尉。
去る顯慶五年、官軍本藩(百済)を平ぐ日、機を見て變を識り、杖劒は歸するを知る。由余の戎より出づるに似て、金磾の漢に入るが如し。
聖上嘉歎し、擢するに榮班を以て、右武衛滻川府折衝都尉を授く。
于時日,夲餘噍,拠扶桑以逋誅;風谷遺甿,負盤桃而阻固。
この時日(とき)にあたり、本餘噍(百済の残党)、扶桑(日本)に拠りて以て誅を逃れ、風谷の遺甿、盤桃を負いて阻み固む。
萬騎亘野,與蓋馬以驚塵;千艘横波,援原虵而縦濔。
以公格謨海左,亀鏡瀛東,特在簡帝,往尸招慰。公侚臣節而投命,歌皇華以載馳。
飛汎海之蒼鷹, 翥凌山之赤雀。決河眦而天呉静,鑑風隧而雲路通。
驚鳧失侶,済不終夕,遂能説暢天威,喩以禍福千秋。僭帝一旦称臣,仍領大首望数
十人将入朝謁,特蒙恩詔授左戎衛郎将。
少選遷右領軍衛中郎将兼検校熊津都督府司馬。材光千里之足,仁副百城之心。
挙燭霊臺,器標于芃棫;懸月神府,芳掩于桂符。衣錦昼行,富貴無革。
雚蒲夜寝,字育有方。去咸享三年十一月廿一日詔授右威衛将軍。
局影彤闕,飾恭紫陛。亟蒙榮晋,驟暦便繁。方謂克壮清猷,永綏多祐。
豈啚曦馳易往,霜凋馬陵之樹;川閲難留,風驚惊龍驤之水。
以儀鳳三年歳在戊寅二月朔戊子十九日景午遘疾,薨于雍州長安県之延寿里第。春秋六十有六