白村江の戦いの後、唐が倭を占領したとする説があります。

ただし、日本側にも中国側にも「占領」の具体的な史料が一つもありません。

 

ですから、「唐による倭國の占領はなかった」とするのが当然の帰結と私は思います。

文献史学を重視する学者であれば、なおさらです。


そのために、これまで3回にわたり、具体的に史料の記事を示し、くどくどと述べてきました。

 

さて、唐による戦後の統治の方法としては、大きく2段階あります。

征服した国を強い拘束力で支配する方法は、支配地に対して唐と同じ州や県を設置し、唐の官僚を送り込み、住民を直接支配する方法です。直接統治です。

 

これに対して、もう少し緩い支配が、間接統治です。

百済や高句麗、新羅の場合は、内地に比べて遠い場所にあるので、原則として征服されたその国の以前の王や王子に「都護」「都督」などの爵号を与え、君臣関係に組み込み支配する方法です。これを羈縻(きび)政策といいます。直接か間接かのどちらか一方に区分けできるのではなく国によってその中間の統治が為されているようです。

 

それでは、白村江の戦いのあと、旧高句麗領、旧百済領、新羅は、唐にどのように支配されたか確認しましょう。

 

簡単に言えば、旧高句麗領には、安東都のもと9つの都督府を置きました。旧百済領には熊津都督府を始め5つの都督府を置きました。そして、新羅には鶏林州都督府を置いて統治しています。

 

高句麗の安東都督には、宝蔵王の三男の高徳武が任じられており、百済の熊津都督には、義慈王の太子、扶余隆が任命されています。その後扶余隆は任命を拒んだために、唐の劉仁願や劉仁軌が引き継いでいます。新羅の鶏林州都督には新羅王の文武王(金法敏)が任じられています。要するに朝鮮半島においては、唐は現地の王族を都督に任命して統治させる方法をとりました。

 

それぞれ『旧唐書』の原文で確認します。

<高麗伝>

(總章)乃分其地置都督府九 州四十二 縣一百 又置安東都護府以統之

(668年)ただちにその地を分け、都督府9、州42,県100を置き、安東都護府を置きもってこれを統治す。

儀鳳中 高宗授高藏開府儀同三司 遼東都督 封朝鮮王 居安東鎮本蕃為主

儀鳳(676-679年)中に高宗皇帝は、高臧(高句麗最後の第28代・宝蔵王)を開府儀同三司・遼東都督・封朝鮮王として授け、安東に居住し、本蕃を統治し主と為す。

(儀鳳)二年又授高藏男德武安東都督 以領本蕃 自是高麗舊戶在安東者漸寡少 分投突厥及靺鞨等 高氏君長遂絕矣。

儀鳳二年(677年)に高臧(宝蔵王)の子、高徳武安東都督とし、持って本蕃を領す。これより安東に在す高麗の旧姓は徐々に減少し、トルコや靺鞨などに分かれ高氏の君主は遂に絶滅した。

 

高句麗の安東都護には、代々唐の軍人が任命され、その下の都督には高句麗の王族が任用されています。高德武は、高藏(宝蔵王)の第三子であり、又の名を高仇须といいます。

 

 

<百済伝>

至是乃以其地分置熊津、馬韓、東明等五都督府,各統州縣,立其酋渠為都督

これに至り、ただちにその地を分け、熊津、馬韓、東明等に5都督府を置き、各々州・県を統治させる。その首領を立て都督と為す。

(龍朔二年)乃授扶餘隆熊津都督 遣還本國 共新羅和親 以招輯其餘眾

(662年)扶餘隆に熊津都督を授け本国に還し新羅と和親させる。もってその除衆を徴兵す。

(麟德二年)故立前百濟太子司稼正卿扶餘隆為熊津都督守其祭祀、保其桑梓

(665年)ゆえに前百済太子に立ち、司稼正卿を爵号とする扶餘隆熊津都督と為し、その祭祀を守りその祖先の故郷を保つ。

 

扶餘隆は、義慈王の太子です。

 

 

<新羅伝>

龍朔元年 春秋卒 詔其子太府卿法敏嗣位 為開府儀同三司 上柱國 樂浪郡王 新羅王 三年 詔以其國為雞林州都督 授法敏為雞林州都督

661年、金春秋は亡くなりその子太府卿の金法敏が位を受け継ぎ、開府儀同三司・上柱國樂浪郡王・新羅王と為す。663年にその国に雞林州都督を為すよう命じ、金法敏雞林州都督と為す。

 

金法敏は、金春秋(武烈王)の長子、文武王です。

 

これら朝鮮半島の国々については、唐によって都督府が置かれ、都督として現地の王族が任命されています。『新唐書』にも同様の記事があります。

 

 

こうした朝鮮半島の国々の状況に対して、倭はどのようであったのでしょうか。

『新・旧唐書』に、果たして、倭に都督府が置かれ倭王を都督として任命した記述があるでしょうか。

 

実はその片鱗さえありません。

『旧唐書』にも『新唐書』にも、倭に都督府を置いた記事も、倭王などを都督に任命した記事もありません。

 

にもかかわらず、「倭國大敗」「倭國占領」を唱え、その考えに凝り固まっている専門家は、書紀に大山下境部連石積等を筑紫都督府に送ったという天智即位六年の記事をもって、唐により倭に都督府がきっと置かれたはずであり、都督が任命されたはずだというのです。唐による倭國占領説を主張される研究者は、たぶん、倭國は白江の戦いで大敗し、勝者の唐はその勢いで倭國を占領したというストーリーをもって、唐側にも倭國側にも記事が無くても、倭國は唐に占領されて朝鮮半島の国々と同様に都督府が置かれ.倭國の王族が都督に任命されたと推測されているのです。

ばかげたことです。

 

都督府が置かれると言うことは、そのまえに倭國の滅亡、すなわち倭王が捉えられていなければなりません。しかしその兆候さえ唐にも倭にも記録がありません。

 

 

大山下境部連石積等を筑紫都督府に送ったと記したのは『日本書紀』の記事のみです。

 

(天智即位六年)十一月丁巳朔乙丑、百濟鎭將劉仁願、遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等、送大山下境部連石積等筑紫都督府

(即位六年)667年11月9日。百済の鎮将の劉仁願は、熊津都督府熊山県令上柱国の司馬法聡等を派遣し、大山下の境部連石積等を筑紫都督府に送る。

 

この「筑紫都督府」は、白村江の戦いの直後、もし倭國がヤマトであったと仮定した場合に、そのヤマトの出先機関であるとした意味合いで書かれています。

 

古来から魏や唐などと交流してきたのは、7世紀後期まで九州にあった倭國であり、その都・大宰府を720年のヤマトの立場で言い換えたのが「筑紫都督府」です。

つまり、「筑紫都督府」はヤマト日本国の立場で記した、いわば架空の機関名で実在しません。これは歴史を理解する上で最も重要なポイントです。

 

そうした『日本書紀』の位置づけ・史料としての性格をしっかり理解しないと、この「筑紫都督府」の意味がわからず、唐が設置した機関であると間違った主張をすることになります。

 

つまり、唐軍による「倭國占領」は、古代史の「専門家」の誤った理解や知識に基づくもので、歴史上の事実ではありません。

 

古代史の専門家であるならば、中国正史である『新・旧唐書』にまったく都督府設置、都督任命の記載が無いのは承知のはずですから、倭に都督府が置かれ、都督が任命されたと推測のみで強弁するのはいかがなものでしょうか。

 

これらの記事を冷静に見つめれば、倭については、唐による都督府も都督の任命も無かったということです。つまり倭國は唐軍に占領されなかったということです。だいたい、倭國大敗なら、書紀に責任者の処罰記事があっても良さそうなものですが、書紀のどこにもみられません。

 

また、これらの「遣倭使」の記事は、受け入れ側である日本側の歴史書『日本書紀』の記事のみにあって、送り出した側である唐の記事には一切ありませんから、歴史事実であると確認できません。すべて『日本書紀』の描いた自虐的な物語です。

 

くどいようですが、何度でも強調したいのは、とにかく「遣倭使」を送り出した側、唐の史料に、唐による倭國の都督任命も都督府設置の記事が「無い」ものを「有る」と主張するのは、論理的で冷静な判断とは言えません。古代史の「専門家」は十分にそのことを知り認めるべきです。

 

唐による倭國の占領は無かった。それが史料事実です。