この日記は、自分自身の生きたい生き方の強化や備忘録としての意味合いが強いのですが、もう一つ、自分にとって完全に”コレクション”と化しています。記事一つひとつが、自分にとって宝石のように光っている感じです。

古物の収集家が、集めた骨董品を並べて、拭いたり手にとってじーっと眺めたりしながら、悦に入っているような感じです(笑)。古物の鑑定士をしていますが、通じるものがありそう。



閑話休題。

鮒谷周史さんという方が、「平成進化論」というメルマガを発行されていまして、かれこれ8,9年、読ませていただいています。完全日刊なので、だいぶ洗脳されている気がしますが(笑)、考え方が自分に合うからこそ読み続けているということでもあると思います。

そういうこともあってか、世の中に数人、よく考えがシンクロするなぁ~という方がいますが、この方のお話も自分の考え方とよくシンクロします。

で、今回もずっとこんなことを考えつつ、日記にはしていなかったんですが、ずばりシンクロしたのでついでに日記にしてみます。


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平成26年3月9日 平成進化論 3830号

■鮒谷が商売下手な理由(わけ)

セカンドステージ代表 鮒谷周史
http://www.2nd-stage.jp/
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より。
(内容は、しばらくするとバックナンバーとして保存されると思います。)




さて、最近は、SNSは個人日記というよりも、商売に繋げたい意図をもって書く人が多いわけですが、そうすると、”売れるスキル”としての書き方が流行ってきます。

・語尾は断言する(思う、とかは×)
・語りかけるようにする。自分一人でシメない
・時事的にキャッチーな単語やニュースを入れる
・目を引くヘッダーデザイン
・写真は必ず入れ上半身を斜めから、腕を組んで撮る

とか。

しかし、特にこの4,5年、自分はこういうのができません。
こそばゆいというか・・・(笑)。

いわゆるあまり情報の多くない”一般大衆”は、こういうスキルにつられるのかもしれないですが・・・。世の本当の強者はそんなことをしなくても、砂浜の波間に消えゆく砂の城、凛と佇む小さな貝殻のように、流行り廃りに関係なく残るのではないか、自分はそう生きたい、という余計な美学が邪魔をしてしまうのです。

時々、流れの中でどうせなら、と試しに使ったりもするのですが、どうしても、自分のことをほぼ知っている自分の”魂”や、自分を全て知っている”超越的な存在”(?)に対してウソをついているようで、精神的に気持ち良くないのです。なにより自分に対して胸襟を開いて気持ち良く生きたい。

賢く効率よく生きれたら楽だろうなぁ、と思ったりもしますが、それよりも大事なものを、自分は持っているのだと感じています。
(とはいえ一つの挑戦として、3年間等の期間限定で、ある目標に対して徹底的に効率にこだわる生き方を追求する期間を作ろうとも思っています。徹底的にやってみないとわからないこともあると思いますし。)


何にせよ、せめて自分の魂にウソをつかない生き方を、死ぬまで追求していきたいと思っています。


富士浅間神社

霧訪山の麓の「富士浅間神社」
ジョギングコースの一つです。


◆◆◆◆◆

3月:29.2km/84km 3月9日朝

2014年:2965.3/1000km
総計:2316.8/10000km(2012年~2021年末まで)
我が家のアイドル、家猫くぅちゃん。

ご飯を食べるためならば、いくらでもゴロゴロ言うし、猫なで声になるし、甘えたフリも徹底している。しっぽをプルプル震わせて、期待と感激を表現する。
食い過ぎをどれだけ罵られても、意に介さず体をスリスリしてくる。

あまりににゃーにゃーうるさくてたまに母の虫の居所が悪い時に、「うるさい!」と怒鳴られても、目をシバシバさせ耳を伏せながらも食い下がる。

きっとご飯を食べるためならば、額をゴリゴリ地面にこすりつけながら土下座もできるんだろう。
このプライドの無さは、呆れを通り越して、感嘆に値する。
いやむしろ、食い、生き抜くことに対する侵し難い絶対的なプライドを感じる。


きっと彼奴にとって、食えることが至上命題であって、それ以外のことはまさにどうでもいいのだろう。食えるためならば、どんなことでもできる。
泥水だってすすれるし、人間様の股の下をくぐることなど造作も無いのだろう。
というか足にスリスリしながらよくグルグルくぐってる。



諦めましょう、手放しましょう、あっさりさっぱりいきましょう、執着は病気なのだ、というのが流行りの昨今、この執着の徹底ぶりは、キラリと光っている。
これこそ野生だ。
賢くなり過ぎて、あれするなこれするなああしなさいこうしなさいと身動き取れなくなりつつある人間に今必要なのは、野生なのだ。
理屈抜きで一点突破していく、泥臭い執着なのだ。
突破できなくて木っ端微塵になったらそれはそれで面白い。

最近は大人になったつもりで、まるであっさり顔の仏様のように悟った気持ちでいたけれど、僕には百年早かった。これでは単なる耳年増だ。
仏様になるのは、思う存分生きてからでいい。
今年はくぅちゃんを見習って、狙ったことに対して徹底的に執着する、泥臭くて粘っこくて、汗まみれで暑苦しい、そんな一年にしたいと思う。



岡本太郎
http://matome.naver.jp/odai/2138777863094513401/2138838111468762003


「自分の中に毒を持て」 岡本太郎著 よりP32~34抜粋

かなり以前のことだが、京都文化会館で2、3千人の禅僧たちが集まる催しがあった。どういう訳か、そこで講演を頼まれた。ぼくはいわゆる禅には門外漢であり、知識もないが、自由に発言することが禅の境地につながると思う。日頃の考えを平気でぶつけてみよう。そう思って引き受けた。

ぼくの前に出て開会の挨拶をされた坊さんの言葉の中に、

--臨済禅師という方はまことに立派な方で、「道で仏に逢えば、仏を殺せ」と言われた、素晴らしいお言葉です--

という一節があった。有名な言葉だ。ぼくも知っている。確かに鋭く人間存在の真実、機微をついていると思う。

しかし、ぼくは一種の疑問を感じるのだ。今日の現実の中で、そのような言葉をただ繰り返しただけで、果たして実際の働きを持つだろうか。とかく、そういう一般をオヤッと思わせるような文句をひねくりまわして、型の上にアグラをかいているから、禅がかつての魅力を失ってしまったのではないか。

で、ぼくは壇上に立つと、それをきっかけにして問いかけた。

「道で仏に逢えば、と言うが、皆さんが今から何日でもいい、京都の街角に立っていて御覧なさい。仏に出逢えると思いますか。逢えると思う人は手を上げて下さい」
誰も手を上げない。

「逢いっこない。逢えるはずはないんです。では、何に逢うと思いますか」

これにも返事がなかった。坊さんたちはシンとして静まっている。そこでぼくは激しい言葉でぶっつけた。

「出逢うのは己自身なのです。自分自身に対面する。そうしたら、己を殺せ」
会場全体がどよめいた。やがて、ワーッと猛烈な拍手。

これは比喩ではない。
人生を真に貫こうとすれば、必ず、条件に挑まなければならない。命を賭けて運命と対決するのだ。その時、切実にぶつかるのは己自身だ。己が最大の味方であり、また敵なのである。

今日の社会では、進歩だとか福祉だとかいって、誰もがその状況に甘えてしまっている。システムの中で、安全に生活することばかり考え、危険に体当たりして生きがいを貫こうとすることは稀である。自分を大事にしようとするから、逆に生きがいを失ってしまうのだ。

己を殺す決意と情熱を持って危険に対面し、生き抜かなければならない。今日の全てが虚無化したこの時点でこそ、かつての時代よりも一段と猛烈に挑むべきだ。
僕は臨済禅師のあの言葉も、実は「仏」とはいうが即己であり、全ての運命、宇宙の全責任を背負った彼自身を殺すのだ、と弁証法的に解釈したい。禅の真髄として、そうでなければならないと思う。





◆◆◆◆◆

2月:129.6km/84km 2月28日夜
3月:13.1km/84km 3月4日朝

2014年:289.2/1000km
総計:2300.7/10000km(2012年~2021年末まで)
見栄えのキレイな実を成らすより、力強い根を張る方に美意識を感じる自分的に、時事ネタに乗っかるのはできるだけやらないようにしていますが、ちょっと時事ネタです。



フィギュアの浅田真央さんが、挑戦して、たぶん一抹の寂しさと共に「良かった!」というリターンを得た。
”金メダルを取る”だけでなく、”生き方の美学を貫いて且つ金メダルを取る”という、より高い目標に挑戦された、その不器用な生き方に、とても清々しさを感じた。



さて、挑戦は時に”リスク”を伴うと言われる。
失敗をしたら、結果が出せないと共に何かを失う、と考えられている。


でも、考えたらこの世に生まれて、この世界を自覚し、この宇宙を感じているという経験自体が、生まれてもいない存在(?)に対してものすごいお得なことであるように思う。

星を見る。生まれているからできる。
空気を吸ってみる。何かが体を駆け巡る。

既にものすごいものを得ている。



そしてどんな人でもこの世で何かを経験するだけ経験して、そして無に帰る。
無になった時点での人生を総括すると、いろいろ経験できたこと自体が、この宇宙の時空に刻まれている。



何かに挑戦したとして、最も大きなリスクは無に帰る、即ち死ぬことだと言われたりするけれど、よく考えると、命よりも大事な価値を得るために、死を賭して何かを表現した人もいるし、むしろその方が、「すごい」と感動したりするので、そうとも言えない。
本人が大事にしているものが何かによって変わる。





ということは、主観的に、結局この世にはリスクなんて存在しなくて、ある意味”挑戦した”というお得な経験だけが存在するのではないか。

最も大きなリスクと言えるリスクは、「こうしたい!」と思ったことをやらないことなのだ。
そして、今から1秒でも生きているならば、1秒の何かが、今すぐできる。




「生きてるだけで丸儲け」 さんま


このまんまだ。

自分の主観的人生における真理を、また一つ実感をもって構築できました。




2014年2月22日空



◆◆◆◆◆

2月:83.7km/84km 2月22日朝

2014年:230.2/1000km

総計:2242.7/10000km(2012年~2021年末まで)
心臓くんは不機嫌だった。

「なんで俺はいつもいつも他のやつら(臓器)のために一生懸命血を送らなきゃならないんだ・・・。
 
 俺はなんのために生きてるんだ!?
 しかも俺の一生のうちの鼓動の回数はだいたい決まってるんだぜ?

 ちくしょう・・・。

 ・・・そうだ。
 この血は俺のものなんだ・・・!
 誰にも渡さないぞ!

 ハァ、ハァ・・・もう止めてやるっ!!」


・・・

・・・

・・・


脳くん死亡。

足くん死亡。

手くん死亡。

胃くん死亡。

小腸くん死亡。

肺くん死亡。

肝臓くん死亡。

腎臓くん死亡。


・・・

・・・

・・・


心臓くん死亡。








「人体構成図」より
人体模型図
http://www10.ocn.ne.jp/~kissho/jintai.htm

「gooヘルスケア」より
http://health.goo.ne.jp/medical/mame/karada




◆◆◆◆◆

2月:73.4km/84km 2月16日朝

2014年:219.9/1000km

総計:2232.4/10000km(2012年~2021年末まで)
最近、ふと、なぜネコが人間社会で生き延びているかの答えが出ました。

全然違う分野の本ですが、

『なぜ「これ」は健康にいいのか?』小林弘幸著

より。



この本は、「自律神経」のバランスを整えることが健康の元である、ということが書いてあります。自律神経ってよく聞くけどなんだろう、とずっと曖昧なままだったんですが、この際イメージできるようにしておこう、と思って読みました。


神経は、脳~胴体までの中枢神経と、そこから手足や体表面にまで拡がる末梢神経でできていて、抹消神経は機能的に”体性神経”と”自律神経”に分かれるようです。体性神経は知覚と運動を司り意識して操作できる方。そして自律神経は無意識(自動的)に機能している。
(例えば、体温調節、血液循環、呼吸、消化吸収、排泄、免疫、代謝、内分泌などだそう)

そして、自律神経は機能的に”交感神経””副交感神経”に分かれています。
これが知りたかった。

詳細は本参照ですが、交感神経も副交感神経も、どちらも高いレベルでしかもバランス良く発動している状態が、いい感じに命がみなぎっている状態、とのことです。
(交感神経が高い時には副交感神経が低い、低い時には高い、という相反関係では無いそうです。)

ソチオリンピックが盛り上がっていますが、スポーツ選手が極めて高いパフォーマンスを叩き出す時、”ゾーン”状態にいると言われていますし、あるいはそれを応用して企業経営でいえば組織が爆発的に伸びている時や、事業が爆発的にうまくいっている時の”フロー経営”等もそんな感じだと思います。




さて、リラックスしている時は副交感神経が高止まりしているとのこと。
笑顔(口角を上げるだけでも)の時も高い数値を示すそうです。
そして副交感神経が上がるとNK細胞やリンパ球などの免疫機能も上がることが実証されているそう。つまりガンや風邪に強くなる。

自分がリラックスする時はどんな時だろうと考えると・・・、

温泉に入る、夜空の月を眺める、爽やかな山の風を感じる、清々しい小川の流れを聴く、野に咲く綺麗な花々を愛でる、大樹の木漏れ陽に佇む・・・、くぅちゃん(家猫)をなでる!

そうか!
ネコとは温泉であり、月であり、風であり、小川であり、花であり、大樹なのだ。
つまりネコとは人間の副交感神経を上げてくれる存在なのだ。
ただそこに好きに生きているだけで、副交感神経を上げてくれるという才能を持った存在。

ただし、高いパフォーマンスを出すためには”やる気を出す”必要があり、これは交感神経を高くしないとダメなので、ネコだけだとモチベーションが上がらずただダラけるだけの毎日になってしまうので注意が必要ですが・・・。




そしてもう一つ、自律神経の数値は、人に伝染するそうです。
緊張している人といると緊張する。
リラックスしている人といるとリラックスする。
まるでミラーニューロンのよう。
そして、高い自律神経のバランスを保っている人といると、高いバランスを保つ。

きっと、

「大樹のような生き方」(過去日記)
http://ameblo.jp/furuta4521/entry-11242752129.html

は、だからなのだ。
自分の命を研ぎ澄ましてくれる存在。



いつも心に大樹とくぅちゃんを置きながら、気持ち良く生きていきたいと思います。

大樹



◆◆◆◆◆

2月:50.1km/84km
2014年:196.6/1000km
総計:2209.1/10000km(2012年~2021年末まで)
3度の飯よりマンガの『ONE PIECE』が好きな友人が、好きが昂じてマンガ内の名言を紹介するページを、

「作りましたよ~」 と教えてくれました。

ワンピース名言.com

僕の日記も読んでくれているようで、

「リンクを貼らせてもらいました!」 とのこと。


この友人、オフィス兼レンタルスペース「ソフィアス」の運営もしているんですが、そこで”ワンピースセミナー”というのもしているそうです(笑)
たぶんそのうちに、船出すると思います。
何はともあれ、好きなことに埋没して生きるって本当に素晴らしいですよね。

僕は「銀河英雄伝説(田中芳樹著)」という小説が、マニアと呼べるレベルで好きなので、僕も「銀英伝名言.com」作ろうかな。




閑話休題。

よく、 「好きなことを仕事にしよう」とか、 「今やっている仕事を好きになろう」とか、”天職”とか、”自分の夢”とか、人生の命題とも言えるテーマですが、そもそも”好き”ということはどういうことだろう、と考えました。
で、どんどん追求していったら、 ”快感”って何?  というところにぶち当たりました。

ちょっと前の日記で、快感はなぜ起こるのか、という「欲望の根源」という、快感の原因を自分の中で定義しましたが、今回は、快感自体を考えてみました。


好きな仕事とは、やってて楽しい(=気持ちいい=ワクワク=快感)、であるわけで、どういう時に気持ちがいいのか、その気持ちよさをより多く発見できた仕事や行動が、”好きな事”なわけです。

ということで、快感の最小単位を一覧で出してみました。


~快感な事柄~

・脳内の快感物質
 ・”期待”で盛り上がるのはドーパミン。
 ・苦しみを緩和するのがβエンドルフィン。
 ・安心感を得るのはセロトニン。

・性欲、食欲、睡眠欲

・血流が良くなること(運動、ストレッチ、マッサージ、かゆい所をかく、あくび等)

・五感への適度な刺激(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)

・その他の心身への適度な刺激(初めての経験、久しぶりの経験等)

・物を収集する

・空白を埋める

・人に承認される

・人と協調できた

・できなかったことができるようになる

・通常容易にできないことができている

・何かに勝つ、何かより優れている

・不快な事が減るor消える

・期待(脳の要求)に現実が合致する

・知りたいことを知れる

・ランナーズ・ハイ(痛みの緩和)

・いわゆる中毒1:以前その行動で快感を得られた行動

・いわゆる中毒2:麻薬、酒、タバコ、パチンコ、ゲーム等

・上記のあらゆる快感について、”得られそう!”という期待自体

・その他、やらずにおれない癖など
 (鉛筆の浪人回しとか、ビートたけしの首を曲げるのとか・・・)

~~~


その他にもたくさんあるでしょうし、重なっているものもありそうですが。


いずれにしても、例えば”仕事”という分野で考えた時、よく言われる「天職」というのも含めて、全ての仕事は、こういう”快感”なものと、”不快”なものと、”どちらでもないもの”が含まれ複雑に絡み合っていて、そういう仕事の中からどれに気づくのか、あるいはどの快感を優先するのか、強化するのか、ということが、人生の幸せを追求していくことなんだと思います。

ワンピース
(著作権は大丈夫・・・?)



◆◆◆◆◆

1月:134.5km/84km 1月29日朝

2014年:134.5/1000km

総計:2184.1/10000km(2012年~2021年末まで)
公開日記を書きたい欲求が爆発寸前で、今年はもっとその欲求に素直に従おうと思っています。


さて、いきなりあれですが、去年の春頃と秋頃に、父と大げんかをしました。
ドガッシャーン!!と。
日々自分を磨くべく心がけてはいますが、聖人君子ではないのでいろんなことがあります。


実は、特に日記にはしていませんでしたが、去年はいろんな凶事?が発生していました。

父と人生で最大の大げんかしたり、
車を大事故で廃車にしたり、
足を骨折したり、
白髪染めを使ってみたら顔から足まで全身かぶれて一ヶ月苦しんだり、
歯痛で歯を抜いたり、


ふと確認したら、42歳は大厄だそうで。
ツキや流れの揺らぎやリズムは存在すると思うので、そういうこともあるのだろう、くらいの認識だったのと、”益”も”厄”もあるがままに、ということで、特に厄祓いもせず。どちらも分け隔てなく学びに変えようという意気込みだったので、思い通りかなり学べた一年でした(笑)。


また去年は、これも非科学的なことながら、以前日記に書いた、

「12年サイクル」(「なぜ春は来ない」神田昌典著より)

の最後の”冬の年”でもあったようなので、できるだけ派手にせず淡々と潜龍の如く”心身の修練”の一年と定めていました。しかし、”冬の年”なのに待ちきれず活発に活動し始めた部分もあったので、そのひずみが出た、という気もします。身体があったまっていないのに激しい運動をして足を痛める感じでしょうか。



閑話休題。

心身の修練を意識して行う日々の中で、最近気付いたことがありました。
それは、自分自身に目を向けて伸ばしたい部分を伸ばし、変えたい部分を変化させながら育んでいくわけですが、その視線が自分だけでなく人にまで向いてしまうことがあります。つまり、時に人の”アラ”を見てしまう。

おそらくこれが昂じて父を厳しく見てしまい、身内だからこその甘えから批判しケンカになってしまったのだ、と感じます。変えられるのは自分だけなのに。


ところで、さんざん、修練ってなんだ、成長ってなんだ、器が大きいってなんだ、と考える中で、こんな風にまとまってきました。

・第一段階:自分に甘く、人に厳しい

・第二段階:自分に厳しく、人に厳しい

・第三段階:自分に厳しく、人に甘い

・第四段階:自分に甘く、人に甘い


甥の悠矢(中1)を見ていると、最近でこそ生き方の美学がかいま見えるようになってきましたが、よくウソをつき、ごまかしたりして自分に甘く、それでいてとても人に厳しく口ばっかりで感謝がない(笑)。
悠矢に尽くす(僕の)母に何の感謝も示さずむしろウザがる悠矢を見て、時々僕もついツッコミを入れたりするのですが、自分の子供の頃も、周囲の人たちの見えない優しさの上で、たくさんの粗相を見逃してもらいながら生きてきたんだろうなぁと思うと、温かな気持ちになります。



精神的に、幼児期から青年期、そして壮年期から、老年期になり死んでいく流れの中で、まずは己の心身を知り、外の世界を知り自立する。そして、そこで得られた学びの先に、

・本当に自分の生きたい生き方を素直に、そして”わがまま”に追求し(自分に甘く)
・世界の全てに感謝する(人に甘い)

があるのではないか。


全てはそこに至るまでのエピソードだと思うと、今の自分の未熟さに、とてもワクワクします。


富士塚の桜と朝焼け



◆◆◆◆◆

12月:113.6㎞/84km
1月:72.0km/84km 1月16日朝

2013年:1046.8/1000km
2014年:72.0/1000km

総計:2121.6/10000km(2012年~2021年末まで)
今年はいろんな目標がありましたが、その一つ、「本を100冊読む」というのを設定していました。

本は大好きですが、実にここ10年程、本を読む時間があるならそれよりも緊急なこと、もっと実利的なこと、という感じで後まわしにしていて、年に数冊というレベルで、いつの間にか世界の見方が貧困になっているのを感じたシーンがありました。
なのであえて目標として設定しました。

(来年は、ものすごくたくさん仕事をしたいのですが、スキマを縫って同様に100冊読む予定です。)

とはいえ実は読みかけも含めて残り15冊で100冊。
ちょっと危うい状態です。




さてそんな中、先週たまたまコンビニで、

『あした死ぬかもよ?』 ひすいこたろうさん著

という本が置いてあって、「そういえば誰かが、良いって言ってたなぁ」と思い、なんとなく、見つけたら読もうと思っていたことを思い出し、これもご縁だなぁと思ったので、ふと買いました。
そしてサラッと読めそうだったので、これでプラス1冊(笑)。

内容は、まさに、僕がこの何年間か日記に書いているのと同じ方向で(笑)、この世に何人か、よく考えがシンクロする人がいるんですが、今までで一番シンクロしてそうな人(本)でした。

いろんなワーク(これをやるといいですよ的な)があり、だいたい今までやってきたものがほとんどですがその中で、

”明日死ぬとしたら、なにをしますか?”

というのがあって、だいたい答えの方向性は決まっていたんですが、もう一度、単なる知識としてではなく、今、実感を伴うように具体的にイメージしてみました。






明日、本当に死ぬとしたら・・・。





・・・ほとんど何もできないので、数時間でできる、人生で最も大切なことを一つだけ、になる。




家に一目散に帰ろう。

家族と夕ごはんを一緒に作ろう。
普通に会話しながらご飯を食べよう。
家猫のくぅちゃんの健康を心配しつつも、しつこくせがまれるままに人間の食べ物を少しあげよう。

食べ終わったら皆部屋に戻る。
ストーブの前に、くぅちゃんをセットしつつ、その横でうつ伏せになっている母の腰を揉む。
しばらくしたら母は寝てしまうので、くぅちゃんの横で横になって、くぅちゃんを撫でる。


撫でながら、僕も一緒に寝てしまって、そのまま・・・。


・・・ ・・・


その先、半年の命だとしたら。
あと三年しかないとしたら。
来るべき死の瞬間まで心を込めて人生を全うしていくとしたら。

となると、さらなる夢や志が拡がっていきますが、僕の場合は基本はここにあるようです。
そして、、、既にそうしていることに、改めて気づきました。
(一緒に寝てしまう以外(笑))



しかし不思議ですよね。
くぅちゃんなんて、腹減った腹減ったと主張するだけの何の役にも立たない(笑)存在なのに、(今のところ)人生最後のシーンに必須なわけで。

でもこれが、全ての理屈やメリット・デメリット等の条件をとっぱらった時に残る、他者との最もシンプルな関係性なのかもしれません。

2013年12月日当り良好くぅちゃん




今年の早朝ジョギング累計1000㎞、達成しました~ヽ(´▽`)ノ

12月:93.8㎞/84km
2013年:1027.0/1000km  ← +。:.゚ヽ(*´∀`)ノ゚.:。+゚
総計:2031.9/10000km(2021年末まで)
毎日、早朝ジョギングの際に神社等に寄るんですが、手を合わせ祈っている時、ふと、過去営々と祈りを捧げてきた、原始から近代までの人たちの姿が脳裏に浮かぶことがあります。

こんな光景。
古代のある時、自然の猛威によってある村に飢餓飢饉が襲いかかる。
同時に謎の病が流行り、その村のあるおばあちゃんの息子が壮年にして倒れ、痩せこけて虫の息。
そのおばあちゃんは、必死で手を合わせ祈る。
祈り続ける。
それしかできない。

そんな祈りが、きっと何百年、何千年と、続けられてきた。
それらの無数の手と、僕の手が重なる。





さて、原始の時代からちょっと前の時代までの世界。
ほんの数十年前まで。

無力と無法と理不尽がまかり通り、人間の命はいつも脅かされていた。
そんなどうしようも無い現実に対して、どのように精神を保つのか。

そこで宗教が生み出され、祈り、そして心のありようによって幸せになれるのだ、という救いがつくり上げられていったのではないか。
それしか方法がなかった。





しかし、限りなく小さいけれども、無数の積み重ねを経て、人類は科学を発展させ、地球上のほんの表層ではあるけれど、想いを現実化する力を得るようになってきた。

今や、原始の無法時代からしたら奇跡に近い、人間がよりよく生きれる法が整備され、理不尽が少しずつ淘汰されていき、限定された範囲ながら人間は無力ではなくなってきた。

先人たちが作り上げたこの文明の上に乗れば、個々人の想いはその気になれば即座に現実化される。





つまり現代は、かつての宗教での、

”心のありようによって、ただ座し、そして瞑想すれば幸せを感じられるのだ”

というやり方にすがるしかなかった、世界が厳しすぎた無力な時代ではなくなった。
先人たちの血と涙と想いの結晶として、より多くの人が、行動を通して自分の想いを現実に反映させられる人間のシステムが、地球上に築かれつつある。

生物の億年の飢餓の歴史の中で、急激に飽食を実現した人類のこの50年、人体はその状況に対して生理学的に対応できていないけれど、”心のありよう”についても大転換期なのではなかろうか。

これからも、命や精神の危機は個人にも人類全体にも発生するであろうから、過去培った宗教のような”心のありよう”は、【ホップ】として活かしながら、これからの人類は、想いの現実世界への反映を加速させるべく、【ステップ】、【ジャンプ】していく時代に入っているのではないか。





やしろの前で手を合わせながら、過去の無数の祈りの末に辿り着いた、それまでとは違う種類の自分の祈りの幸せを、しみじみと感じます。


まなびーの『ドラクエ型人生』-2013年12月1日矢彦神社




11月:116.3㎞/84km
12月:24.0㎞/84km

2013年:957.2/1000km
総計:1962.1/10000km(2021年末まで)
今朝の話。


私はりんごが大好きで、りんごの季節には、あれば1日に一個は必ず食べるようにしています。

「りんごが赤くなると、医者が青くなる」の言葉通り、なにしろ身体に良いので。



私は両親と同居しているんですが、今朝、3,4日自宅に戻らない予定で朝出かける時、時間がギリギリになってしまって、

「しまった!りんご切っとくの忘れた~! 2つくらいは持っていきたかった!」

と、出がけに”心の中で”思って、つぶやいた言葉は、

「あっ、忘れた~」(小声)


そしたら、母が、


「切っといたよ。」

と、ジップロックに、今日の分の一袋と、そして明日の分の一袋(こちらは1日後に食べるので、軽く塩水に漬けてくれていた)の二袋を、渡してくれた。



「! なんで分かったの!!!

 ・・・しかも2個分!」




家猫のくぅちゃんや、甥の悠矢は単純なので、何考えてるか、今どんな欲望に踊らされているかまるわかりですが、そういう感じなんだろうか。

それとも、愛の深さか。

器の大きさか。






小さいころから、もしかしたら親は、子の頭の中を全部透視することができるのではないかと、疑っている。


$まなびーの『ドラクエ型人生』-20131118_りんご


11月:48.8㎞/84km

2013年:862.7/1000km
総計:1868.6/10000km(2021年末まで)