苦労は必要か否か

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よく、「苦労は買ってでもしろ」といわれるくらい、苦労はその後の将来を大きく左右する、素晴らしい経験になることは多くの人が実感していることだと思います。

そんな中で、最近は、「わざわざ苦労する必要はない」という意見も大きくなってきました。
これは、苦労を否定しているのではなく、苦労が目的となってしまったり、する必要のない苦労に突入して人生が逆に苦しくなってしまうことに対する警鈴だと思いますが。

では、苦労は、是か非か。


ところで、ほとんどの人は挫折したり苦労したりします。

なぜなんでしょう。

それは、人やモノへの有り難みに気づけていない時に起こります。
気づいているものもあると思います。
しかし忘れてしまっているものもある。
その気づけていない”それ”への有り難みについて、気づいていないので、粗末に扱う。つまり”それ”に対して傲慢になる。すると、”それ”からしっぺ返しが来て、自分の取り組みが前に進まなくなる。どん底に落ち込む。
すなわち、”それ”に対する感謝が足りない時、”それ”が「気づきなさいよ」というメッセージを携えて苦労を起こすわけです。

そして苦労するとどうなるか。
”それ”の有り難みにそこで気づき、「大切にしなきゃ」と改めて思うわけです。
有り難みに気づいてもらった”それ”は、安心して、メッセージとして苦労を投げ込むことはしなくなる。

しかし、人間は愚かなもので、まず、気づいていないところから始まる。

そして、ある時気づく、しかし、忘れる。
無い時にあんなに苦労し、有ることへの感謝を骨の髄まで刻み込んだはずなのに、有る状態に慣れると徐々にまた傲慢になってしまう。
傲慢になると、”それ”がまたムクリと起き上がり、苦労を投げ込む。傲慢になるなよと。
人間は、ずっとそんなことを繰り返しているような気もします。


さて、ではどうすれば良いのか。
苦労するのは感謝を知るためであり、感謝さえきちんと知っていれば、その必要はないわけです。
で、一番参考になるのが、鍵山秀三郎さんの、

『掃除道(トイレ掃除、ゴミ拾い)』

『下座行』

『凡事徹底』

下座行とは、常に最下層にいることで謙虚さを鍛えること。
トイレ掃除は、人間の”しも”を預かる場の掃除。
そしてそれらを日々、凡事徹底して修練する。


誰よりも常に謙虚に生きる。
これは、本当に強くなければできないことです。
心の奥底に、誰に見られるでもない、確固たる自尊心がなければできません。

これらを習い性として日々修練する。
ふと傲慢になる瞬間を自覚して、すぐに修正する。
そうやって、一生をかけて磨き上げていく過程で、全てのものに対する感謝を培うことができるのだと思います。

感謝とは、”それ”を大切に扱うこと。
大切に扱われた”それ”が、大切に扱ってくれる人を粗末に扱うはずがありません。
感謝している限り、突発事故を例外として、周りはその人に苦労はさせないはずです。



元々は、自分は何も持っていなかった。
この世に生まれてすらいなかった。

その究極の下座行の意識を常に持って、あらゆるものに感謝して生きたいと思います。

自然は全体最適

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地元には一箇所だけ太陽光発電の畑?があります。
6つに分散している僕のぶどう畑の一つの畑(試験畑にしています)の隣にありますが、砂利が敷かれ、夏は除草剤で草が生えないようにしていて、僕の自然栽培畑とは全く対照的(笑)。

僕は太陽光発電自体は人類が化石燃料から卒業するために必須な技術だと思っているので大賛成ですが、畑や山を使ってそれをやるのはちょっと反対です。
ただ、日本の経済発展を抑制したいイデオロギー的政治運動に利用されてしまっている反対運動は、ドロっとした怨嗟が入っている場合が多く嫌いで、いずれ、核融合(核分裂でなく)と合わせて、星のエネルギーを活用して進化していくであろう人類が、今後宇宙にブレイクスルーしていく過渡期だと思っていて許容はしています。

※先日、喜多方に行った時、太陽光発電の下にワインぶどうを植えていて、これはおもしろい!と思います(笑)。

なぜ畑や山を使ってそれをやるのに反対かというと、このやり方は自分が良ければそれでいい”部分最適”だからです。
自然はいつも全体最適。三方良しです。自分良し、相手良し、世間良し。

例えば山の一部分を見てみると、太陽の光を木が浴びて、木が育ち(自分良し)、それと共生する生き物がいて(相手良し)、そして酸素供給も含めて全体の調和と連動している(世間良し)。太陽の光が全体の利益に波及しています。

しかし、山や畑の太陽光発電は、降り注ぐ太陽エネルギーの利益を、発電施設を置いた人だけが享受する仕組みです。百歩譲ってその享受した人が回り回って社会貢献するのであれば広義の三方良しになるかもしれませんが、うちの隣の太陽光発電畑は、土は死んでいます。全体を見ると、効率が悪すぎる。

もうちょっと人類が”我”をコントロールできるようになっていけば、人類はより良い進化に進んでいけるのかな?

農法についてもそんな思いがあります。
自然栽培は、自分だけが良ければそれで良い、というところから卒業し、自分以外の畑の生き物達、自分の次にその土地を使う後世の人たちのことも考えた農法です。
自然栽培は、三方良し。
時間的空間的に広い視野で見れば太陽のエネルギーを最も生かし切れるあり方。

全員が無肥料無農薬でやれば、僕の地元の井戸水も、いずれ昔のように飲めるようになるはずです。

部分最適が成り立っているように見えるのは、それを見えないところで補っている存在があるから。農業で言えば、自然という大きな存在が、全てを受け止めてくれているから、多少のおイタ(部分最適)をしてもやっていけているだけ。
親と子のようなものかもしれません。

農業だけでなく、
見えないけれども助けてくれる存在に感謝しながら、少しでもそういう存在に迷惑をかけず、できれば力になれるような生き方をしていきたい、と思っています。

 

◆◆◆◆◆ 
7月:87km/84km 7月27日昼 
8月:84km/84km 8月30日昼 
9月:84km/84km 9月30日昼 
10月:84km/84km 10月30日昼 
11月:84km/84km 11月30日昼 

私は、お風呂に入った時、もっとキレイにして出るようにしています。
食器を洗う時、ついでに周囲をもっと綺麗にしたり整理したりしておきます。

トイレ掃除、ゴミ拾い。

心の師の一人、イエローハット創業者の鍵山秀三郎さんの『凡事徹底』の教えの実践です。


さて・・・。
自分が生きることも含めて社会で生きていく時、こんなキーワードがあります。

『自助、共助、公助』

自助:自分のことはまずは自分でなんとかする努力をする。
共助:その上で自分や人の足りないところを共に助け合う。
公助:もっと大きな力がないと出来ないことは皆で作り上げた公という大きな環境で解決する。



ところで、
例えば、全ての人が農業だけをして生きるとしたらどうなるか。
それは素敵なことだけれども、そのままだと人類は滅亡します。

なぜか。
数千万~数億年のスパンで、地球に隕石が落下したり大異変が起きたり、あるいは50億年後には太陽自体が死ぬので、人類は地球にはいられなくなるからです。
その時に、宇宙に進出していなければ人類は滅亡するわけです。
それはそういう運命だから、、、というのは、たまたまその時期に滅亡にさらされて苦しむ子孫達の恨みを買うことになります。「なんで移住先の星見つけといてくれなかったの・・・!」と。


人類が滅亡したらどうなるか。
宇宙がせっかく50億年費やして育んだ 地球上のおもしろい有機生命体の一派である人類。

例えば自分の庭に、いろんな種を撒いて、そして色んな花が咲いて。
その中の一つの、芽がでなかったり、せっかく咲いた花が枯れてしまったら、残念だと思います。

宇宙もきっと、育んだ種(しゅ)の一派が死に絶えてしまったら残念だろうと思います。
だから宇宙は、人類がどんな悪ガキであれ、宇宙の子である人類の存続を望んでいるはずです。
きっとそこには愛がある。


となると、人類は存続のために宇宙に出る必要があり、そのためには人とお金と科学技術を結集させつつ、あらゆる分野の仕事をそれぞれ発展させる必要があるのです。
即ち、富の集中と取り組みの多様性。


一人のレベルでできることもあれば、二人いなければできないこともあります。
複数人必要なこともあれば、10万人が必要なこともあります。
もしかしたら1000万人必要なこともあるかもしれないし、あるいは人類全て、100億人の数とその連携によって、はじめて人類は宇宙に進出できるのかもしれません。そのための蓄積として、人類の数をここまで増やしているのかも・・・。
そして人類が宇宙に進出する時、きっとそのノアの方舟に、地球上のできるだけ多くの種(しゅ)を一緒に宇宙に持っていくのだと思います。他の種(しゅ)も助ける。それは人類にしかできないこと。


即ち、あらゆるレベルでの富の集中は必要なのです。
(富とは、お金であったり、人の有機的な繋がりであったり、いろんな形があると思います。)

ただしその時、倫理的に大切なことは、その富の集中を個人レベルの貧富の格差にしてしまうか、”みんなで使えるいろんな規模の財布”としての富の集中にするかなのだろうと思います。

システムとして、不公正や歪みを是正し、共助、公助としての財布をみんなで作っていく。それが人類がよりよく進化していく環境作りとして必要なことなのだろうと思います。



まず自助。
そしてその先の共助も公助として、今できるほんの少しの目の前のことをする。

例えば、
ゴミを落とさないのは言うまでもなく、見つけたゴミは拾う。
使ったトイレは自分が使う前よりちょっとキレイにして出る。
玄関のクツは脱いだら揃える。
目の前の人がほんの少しでも良い気持ちを持てるようにちょっとの笑顔と気遣いをする。


『風が吹けば桶屋が儲かる』的に、この日々の基本単位が地球全体で集積していってはじめて・・・、人類は滅亡から逃れ、より良い進化を未来に繋げていけるのだろうと思います。

今ふと行っている、誰も見ていない自分の行為が、人類全体、そして宇宙全体の想いと繋がっている。

そんな思いで、ゴミを拾っています。

人の断捨離?

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私は古物鑑定士をしていまして、人がいらないものを買取り、欲しい人に売る、という仕事をしています。

死蔵されているモノを社会に還元し生かす仕事。
で、このご時世で使いやすいキーワードとして『断捨離』がありまして、お客さんもこの言葉をよく発します。

まさに私の仕事は、モノの断捨離をお手伝いする仕事でもあり、大いに断捨離を薦めるんですが・・・。

しかし、昨今、色んなところでこんなフレーズを聞きます。

「合わない人は切りましょう。」
「嫌いな人は嫌いでいい。」
「人間関係も時々断捨離しましょう。」


しかし、どうもずっと個人的に違和感があって、まあ確かに商売の効率化とかには必要かな?と思わないでもないけれども、”自分にとっては”何かが違う。
何かこう、人の尊厳を無視している感じがする。
全ての人に、全ての存在に価値があるんじゃなかろうか。


例えば、ある人が、「人の良いところを見るようにしましょう」と言っていました。いわゆる美点凝視。
でもその一方で、「合う人とだけ付き合えばいいんだよ」とも言っていました。

しかし、合う人とだけ付き合うということは、即ち合わない人とは付き合わないということで、合わないのはなぜかというと、その人に嫌いな部分があるということ。もちろん人には必ず相性があるので、合う合わないを感じるのは普通なことだけれども。
しかし人には良いところと悪いところがあるのが当たり前で、人を嫌うということは、その人の嫌いな部分を見るということ。
それはつまり美点凝視ではなく、欠点凝視。矛盾している。

例えば商売上の目標があり、あるいはその時の心の状態から、過程として、上のような断捨離を経ることも時には必要なのかもしれません。あるいは好き嫌いをはっきりすることで、好き同士が集まりやすくなり、その範囲内に限ってはだいたいみんなハッピー、という側面もあるかもしれません。

 

あくまで、自分だったらというお話であり、人の価値観を否定する話ではないですし、あるいは徹頭徹尾、美点を凝視せよとは言わず、そして合わない人とは会わないで生きるとしたら、むしろ首尾一貫、潔くて良いとも思います(笑)。

 


で、ある時、私が尊敬する心の師の一人、竹田和平さんのこんな言葉を見ました。

「あんまり人を嫌わない方がいいよ。」

そうだよね!と思いました。我が意を得たり!と。
思えば、竹田和平さんが人を嫌っている姿というのを、全く想像できません。
たぶんこの方は、どうしても人の良いところを見てしまう人だったに違いない。愛の人。

もちろんそうあるように努力されていたのかもしれませんが。

そして、私が尊敬する6トップの心の師。

西郷隆盛
勝海舟
竹田和平さん
斎藤一人さん
鍵山秀三郎さん
福島正伸さん

この方々の本をたくさん持っていますが、誰一人として、人の断捨離を薦める人はいません。
(100%全てを知っているわけではないですが)

そして私の、本としての師、座右の書『7つの習慣』。
この中にも、どこにも、”人を切る”、”人を嫌う”、”人間関係を断捨離する”という方向性のことは全く書いてありません。

むしろ彼ら師は全て、

”人を許す”、”人を受け入れる”、”人に感謝する”・・・そしてどんな対象に対してもそれらを実現するために自らの人間性を高める、心を成長させることに注力して生きる、ということを自ら修練し、そして切々と説いているように感じます。
それが最高の幸せへの道だと。

今、私も彼ら師を信じてそういう生き方を日々意識して生きるようにしていますが、神ならぬ人間なので日々一進一退ではあるけれど、私自身実際に、ほんのここ3年間でも、人生に対する納得感、満足感、そして幸せ感がびっくりするほど増しています。やっぱり心がすっきりする生き方がいい。

今だってよっぽど幸せに感謝しきりですが、これからもさらに幸せが増していって、しまいには毎日鼻血が出そうなくらいになるんだろうかと考えると、もうワクワクして大変です。

 

 

天才のデメリット

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天才プレイヤーは、良い指導者になれない、というお話がある。

天才は、できてしまうから、なぜできるのか教えにくい。
そして難なくできてしまっていることは無意識なので、それが大成するための必要条件の一つだ、と通常は意識できない。


僕の友人に、「自分のために生きれば良い」という人がいて、でもその人の言動を見ると、きちんと利他になっている。

例えばその人は、声を荒げない。いつも穏やかな笑顔をたたえている。
人の話を傾聴する姿勢をいつも持っている。目の前の人の尊厳をきちんと認めている。等など。

何もボランティアをするとか、寄付をするとかだけが利他ではない。
人の目を見て話す。お礼の感謝をきちんと言う。人の話をきちんと聴く。笑顔でいる。

それも、というかそういう普段の言動にこそ、利他の姿勢が現れている。
利他、貢献、奉仕。

福島正伸さんは「笑顔は社会貢献」と言ったけれども、まさにその通り。

本当に自分のためだけに生き、他者を粗末に扱ったら、人は離れていくだけなので、「自分のために生きれば良い」という利他の天才の言うことは聞かない方がいい、と僕は思っています(笑)。

最近、ほぼ毎日Facebookに投稿しており、案外このブログで書くようなマニアックな話も投稿してしまっており、アメブロどうしようか、とちょっと思いました。
が、でも、こちらは自分の考えのコレクション、という感じで引き続きコレクションを増やしていきたいし、今までのこのアメブロでの投稿と思考の土台のおかげで今のFBでの投稿ができる感じなので、引き続きFBに載せられないレベルの濃い内容を書こうかな、という状況です。Facebookは長い文章書けないですし。(でも普通よりかなり長い(笑))



さて、今私は自然栽培でワインぶどうを作っているんですが、すると自然栽培やワイン業界の繋がりが増えてきます。
元々IT系の会社に勤めていて、それを辞めてゴリゴリの完全歩合の営業の世界を経て、今は自営で古物鑑定士を行いながら、畑をやっています。これからはワイナリーの経営へ。

全て、それぞれまるで異世界で、よくまあやるよ、と我ながら思いますが、新しい世界に入って、面白いなぁと思うんですが、それぞれの世界はかなり異なる世界観があり、価値観(良いとされるあり方)が結構違っていたりします。
例えば、ゴリゴリの営業の世界では、結果が全てでそのために努力や頑張りが大いに推奨される世界です。そこで超努力をし頑張りそして結果を出すと、大きな力を手に入れることになります。



さて、人が幸せなり何なりを手に入れるためには何が必要なのでしょうか。

結論。

【信頼のおける人の繋がり】

が必要です。これ、必要十分条件ではないでしょうか。つまり自分の力になってくれる人。
この地球上で、世界で、今自分が欲しいと思っているあらゆるもの(モノ、キモチも全て)を得るためには、直接間接に自分以外の人の存在が必須になります。
では、それを手に入れるために必要なものは何でしょうか。

結論。

【信頼残高】

です。(色々端折ってすみません)

私の座右の書『7つの習慣』は本当にすごいなぁとつくづく思いますが、あらゆる事象の根本をたどっていくと、必ず7つの習慣の【原則】にぶち当たります。
この【信頼残高】も、7つの習慣の最も大事な考え方の一つです。日々の生活の中で、いかに信頼残高を積み上げていくか。
さて、ではどうすれば信頼残高を積み上げることができるんでしょうか。

結論。笑

【原則】に基づいて生きれば良いわけです。

【原則】とは、

『時間を超えて不変であり異論を挟む余地のない、普遍的で絶対的な法則』

と説明されています、7つの習慣は、その【原則】を抽出し羅列した本、とも言えます。例えば単語で抽出してみると、

『公正、正義、誠実、正直、人間の尊厳、勇気、謙虚、奉仕、貢献、美徳、可能性、忍耐、励まし』等。

これらに基づいて生きれば、信頼残高が蓄積されます。異論はないと思います。”自明”です。細かく説明すると長くなってしまうので揚げ足は認めません笑。



さて、うまくいっているあらゆる人の繋がりでは、必ずこれら【原則】が土台にあるわけですが、では具体的にどうやったら信頼残高が積み上がるのでしょうか。ようやく本題です。

自分が物理的、精神的、あるいは直接、間接に関わるあらゆる人のつながり(コミュニティとします)。自分が何かを得るためにはコミュニティからの応援が必要になります。そして応援してくれるということは、信頼残高が蓄積されているということです。
応援と言っても、労力やお金等で具体的に支援してくれる人だけでなく、見守ってくれる人、声援を送ってくれる人、味方になってくれる人…。どんな形であれ、大なり小なり自分の力になってくれる人。
では自分がどうしたら信頼残高が積み上がるんでしょうか。

それが、そのコミュニティの価値観です。そのコミュニティで良いとされていること。
例えば、そのコミュニティが、営業成績を重視するのであれば成績。
努力や頑張りを重視するのであればそれ。
自分らしく生きる、ゆるく生きる、利他の行動、お金を持っている、人の繋がりが多い、等など。その業界での実力があるというのはよくあるパターンです。
そのコミュニティのリーダーの価値観というのが一番大きいと思いますが、自然発生した共通認識の場合もあるし、実利の場合もあるし、いずれにしても、そのコミュニティ内で、どういうことをしたら「素晴らしいなぁ」と感じてもらえるか、それが価値観です。



ということで最後の結論。

いずれにしても、上記の【原則】が土台にないと短期で一見うまくいっても、長期ではいずれうまくいかなくなりますが、その土台の上で、それぞれのコミュニティで「それって良いよね」ということをしていれば信頼残高が貯まり、人の”応援”が得られ、得たい結果を得られる、というわけです。

なので、それが努力や頑張りの時もあれば、正反対の時もある。
自分がどのコミュニティ(繋がり)が心地よいのか、自分の魂の叫びだけは聴き間違わないようにして、そういう繋がりに入ったり自分で作ったりして、その繋がりの価値観に合わせていけば良いのだと思います。

 

 

 

◆◆◆◆◆
3月:98km/84km        3月31日昼
4月:84km/84km        4月30日昼
5月:84km/84km        5月31日昼
6月:92km/84km        6月30日昼
7月:10km/84km        7月4日昼

2018年:553km/1000km
総計:7045/10000km(2012年~2021年末まで)

人は変われるのか否か

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10日前ほどから、Facebookでの連投を始めまして、その分このブログの方が疎かになっていました。いよいよ、以前のブログ「本とうんこ」の実践です。
とはいえ、Facebookとこのブログでは書ける内容の方向性が違うので、どちらも続けていきます。時間が無限にあれば、どちらも毎日毎瞬、書きたいんですけど。

●4年前と今

さて、4年前ワイナリーをやると決めてぶどう畑も増え、2020年ワイナリー設立に向けていよいよ色んな取り組みに加速がついてきた感じです。子供の頃からの性格なんですが、例えば将棋では棒銀より矢倉囲いが好き。初っ端から一気に攻めるより、細かいところからコツコツコツコツ準備を重ね、外堀をじわじわじわじわ埋めていき、相手も油断している中で、気づいた頃には目的を達成できる状況になる、というイヤらしいタイプです(笑)。

毎年、「去年の自分って、なんて恥ずかしい人間だったんだろう」と、自分の過去の言動の恥ずかしさ、未熟さ、失敗を思い出して、微笑ましく思いつつもいたたまれない感じになることがあるんですが、4年前なんてもう、江戸時代と現代くらいの隔世の感があります。
「変わったなー…」と思うんですが、しかし、現実の変化を感じるにつけ、いつも思い出すエピソードがあります。

●人格は磨けない

それが、これ。2010年の日記。

『人格は磨けない!?』
https://ameblo.jp/furuta4521/entry-10586918295.html

東京に僕の恩師の一人がいらっしゃいまして、その方との会話です。

~~~以下抜粋~~~

僕「人間磨いて、成長していきたいんです!」 

恩師「あなたね。磨く磨くって言うけど、 
 人格は磨いたって変らないわよ。」 

僕「???(ホワッ?)」 

恩「ウソついたり人を裏切ったり不誠実だったり、 
 そういう根っこって、そうそう変るもんじゃないのよ。」 

僕「えー、じゃあ、どうしようもないんですか?」 

恩「そうねえ。 
 でもあなたはもう磨くとかもう大丈夫だから、 
 もっと儲けなさい。 
 商売を一生懸命やってもっと儲けられるようになったら、 
 自然に器が広がるから。」 

僕「器ですか…。」 

恩「もしあなたが、 
 道を踏み外しそうになったり騙されたり何かあったら、 
 あなたの周りの人達が助けてくれるわよ。 
 ちゃんとやってれば、そういう仲間がいるものよ。 
 そうでしょ? 
 だから人格なんてもう大丈夫。 
 とんでもなくバカやってもいいから、儲けまくりなさい!」 


~~~以上抜粋~~~

そして、『人は変われる?変われない?』という命題。

この問いに、ここ2,3年ですが自分の中で回答を得ました。
結論は、「変わらない部分と変われる部分がある」です。厳密に言うと、全てに変われるんですが、『超変えにくい部分<<<=====>>>変えやすい部分』という感じですが。

●変わらない部分

 

『三つ子の魂百までも』という慣用句があります。
小学校からの友人に時々会うと、雰囲気は全然変わっていない人がほとんどです。ちょっとした仕草、喋り方、考え方等。これ、なんでだろうと思ったんですが、わかりました。
「変えよう」と意識してこなかったところは、変わらないのです。当たり前(笑)。自分の遺伝子、脳みそ、体の物理的機構、そこから生まれるあらゆる考え方や言動。それは生来のものであって、意識しなければその生来の性質に依存したものが発現されます。そしてそれは思考にせよ言動にせよ、体の物理的機構から発するわけなので、そうそう変化させることができません。
(もちろん環境や状況の激変に対して有無を言わさず変わってしまうこともあると思いますが。)

●変われる部分

 

ではどうすれば変われるのか。それは物理的機構自体を変えること。即ち日々の修練によって、長い時間をかけて思考回路、神経回路等の物理的・化学的機構を変えていくことで、所望の思考や言動を獲得できるわけです。

例えばプロスポーツ選手は、まさにそう。生来の体の機構を、日々の修練によって自分の理想の形まで引き上げていきます。

「こう体を動かしたい」「こういう球を打てるようになりたい」「こう来たらこう返したい」等。「変えたい!」と思い、且つコツコツコツコツ日々の反復を意識して行い、そして長い年月をかければ変われるのだと思います。バットの素振りの繰り返しで手の皮が象の皮膚のようになった松井秀樹さんのように。

●刺激と反応の間にはスペースがある

毎度おなじみ、『7つの習慣』。その中の、

『第一の習慣:主体性を発揮する(主体的である)』
http://www.franklinplanner.co.jp/learning/selfstudy/ss-10.html

自分に起きた出来事に対して、”反応的”に反応してしまうことが時々あります。
予期していない、自分に対する何らかの攻撃があった時、カーッ!として怒鳴ってしまったりイライラをぶつけてしまったり。そして後から「あんなこと言うんじゃなかった」と後悔する。(もちろん後悔しない反応であれば、自分のありたいあり方に沿った素晴らしい生来の反応だと思います。)
しかし人間には、起きた出来事に対して、どのような反応をするのかを選ぶ能力があります。
ナチスの強制収容所の出来事を綴ったヴィクトール・E・フランクル著『夜と霧』。彼は、あの極限の出来事の中でも、己の”スペース”を最大限に活用し、即ち”主体的”であることを選択し、心の自由を失うことはありませんでした。
これが”スペース”の部分。自分は本当はこう生きたい、こうありたい、という”魂の叫び”。
ブログなどのじっくり考えて書く文章は、まさに魂の叫びが現れるもので、僕はあらゆる人は、特に長期間書かれているブログからその人の本当の人となりがにじみ出ると思っていますが、このスペースの部分こそが、変えることができる部分なのだと思います。

 


誰か有名人が「優しさは知性」と言っていました。
色んな経験をし時に傷ついて傷の痛みを知り、色んな本を読んで人には様々な境遇や考え方を持っている人がいることを知り、それによって初めて、自分に起きた、例えば一見ひどい出来事に対して、その背景を考えて優しい反応を選ぶこともできるのでしょう。

自分はどんな自分でありたいのか。
この魂の叫びに寄り添い続け、現実を変えていきたいと思います。

 

 

 

4年目の第1ブドウ畑。

少しずつ少しずつ現実に反映されていく、僕の魂の叫び。

神の見えざる手

テーマ:

先日、ワイナリー事業に関する講演を、高校同窓会地元支部で依頼されておこなった。
はじめて出た地元地域の高校同窓会。最近は若者はほとんど出ず、だいたいが60代~80代とのこと。

そこで、僕自身、自分の使命を見つけて充実した日々を幸せに送っているので、「幸せなんです。」「お陰様で毎日楽しくて仕方がないんです。」と、その場の空気の良さを感じつつ、あえて本心を連発してみた。

幸いなことに、
「夢があって素晴らしい!」
「応援したいよ!」
「元気が出た!」
と絶賛してもらえた。

で、今回は良かったですが、こういううっとうしいくらいの(笑)プラスのエネルギーは、ちょっと間違えると、
「自分はそんなに頑張れない・・・。」
「自分にはできない・・・。」
と聞く人を落ち込ませる可能性がある。

言う側の言い方もあるかもしれないけれど、聞き手の精神状態の良さ、悪さによっても、聞こえ方、受け取り方が変わってきてしまうのだろうと思う。
例えば、自分の能力や生き方に劣等感を抱えていたり、傷ついて精神状態が弱っている時など、エネルギーの高い空気に触れると、とても受け取り切れず、焦ったりイライラしたり落ち込んだりしてしまうことがあるように思う。

◯どんな存在が生き残るのか
https://ameblo.jp/furuta4521/entry-11865071757.html




●2-6-2の法則

ところで、僕のブドウ畑の隣に、何十年も放置されて自然な状態の畑がある。いわゆる自然栽培(無科学農薬、無化学肥料、草生栽培)を志す人間として、完全放置されると畑がどうなっていくのか、という”究極”を実際に観察する素晴らしい機会になっている。
ここでは、雑草が完全に混沌としているのではなく、ある部分はヨモギがコロニーを形成していたり、ある部分は、ハルシオンがコロニーを形成していたり、ひ弱そうな草も、強力そうな草も入り混じりながら、また季節によっても刻一刻と変化しながら、半分くらいかき混ぜた全色の絵の具のように、フラクタルな規則性とでも言うべき、植物の種類にゆらぎがある感じ。そして全体としては面白く調和をしているように見える。

2-6-2の法則というのがある。
例えば蟻の一群について、だいたいどんな群も2割の頑張る蟻と、6割の普通の蟻と、2割のサボる蟻がいて、その2割のサボる蟻を排除すると、残りから2割のサボる蟻が出て来る。2割の頑張る蟻を排除すると、残りから2割の頑張る蟻が出て来る。
20対80の法則とか、3-4-3(さしみ)の法則とかも言われたり。
例えば、人間の腸内には善玉菌が2割、日和見菌が6割、悪玉菌が2割いる。時々善玉菌が3割になることがある。しかし、時を置くと、やはり2-6-2に落ち着いてきたりする。
これらは正規分布でもあるのだと思う。
http://www.koka.ac.jp/morigiwa/sjs/standard_normal_distribution.htm

◯正規分布
https://ameblo.jp/furuta4521/entry-10683951495.html

さらに比率だけでなく、そういうゆらぎもまた、調和の一つなのだ。
”ゆらぎ”という分野における、全体の2割は大きくゆらぎ、6割は少しゆらぎ、残り2割は全く揺らがない、等。




●人間社会~個性のばらつき~

これらはもちろん人間社会でも当てはまって…、この世界に存在する全ての要素は大きな調和の中における役割であり、必要な存在なのだと感じることがよくある。

足の速さの世界:2割の足の速い人がいて、6割の普通の人がいて、2割の足の遅い人がいる。
頑張る頑張らないの世界:〃
変化と安定の世界:〃
身体の大きさの世界:〃
行動力のあるなしの世界:〃
頭の良さの世界:〃
健康の世界:〃
善い人悪い人の世界:〃
自分のため人のための世界:〃
あらゆる世界の分野:〃

そしてこれらは、それぞれの分野のリーダーを中心にして、フラクタルにコロニーを形成している。




●フラクタル

aという存在の中に、善玉2,日和見6,悪玉2の腸内細菌がいるとする。
bという存在の中に、2,6,2の腸内細菌がいるとする。
c…、d…、…

そして例えば、このa,b,c~z という26個の要素を包含するAという群があり、それらはだいたい、
5個:16個:5個(で計26個)
の割合で、調子の良いヤツ:普通のヤツ:調子の悪いヤツ がいる。

調子の悪い5個の中で最も調子の悪い1個が、滅したとする。すると、普通のやつの中の一つくらいが、調子が悪くなる。逆もまたしかり。

同じように、a,b,c,~z という26個の要素を持つBがあり、同じように、5:16:5の割合の前後を、揺らいでいる。

そういうAやBが、C,D,E~Z とたくさん存在しており、例えばそのA~Zの26個の要素にも、5:16:5 の割合で、調子の良いヤツ、普通のヤツ、悪いヤツがいて、増えたり減ったりしながら調和を保っている。

という形で、あらゆる存在がフラクタルに存在しており、そしてそれぞれのレベルで2-6-2の調和の前後でゆらぎながら、増えたり減ったり、生まれたり滅したりしている。

それら全てを包含する宇宙自体も、無限高温で無限な変化を持つビッグバンから始まり、今でも極限まで変化し続ける星の内部から、極限まで停滞していくブラックホールの内部の間に、あらゆる物質が存在していて、例えば生物はその変化の真ん中あたりにいるのだろうと思う。




●人間社会~破壊と滅亡の間~

その生物の一形態である人間の一人である僕は、例えばラーメン二郎を食べると、前後の食事を節制したりするけれども(笑)、例えば頑張りすぎる人が増えすぎて、社会が変化し過ぎて破壊のリスクが増えると、個々でいつもより手を抜く人が出てきたり、「頑張らなくても良いんだよ」と主張する人が増えてくる。
頑張らな過ぎる人が増えすぎて、社会が停滞して滅亡のリスクが増えると、個々でいつもより頑張る人が出てきたり、「頑張ろうよ」と主張する人が増えてくる。

全体としてより良く継続可能な真ん中辺りに調和してくるのだ。

あるコミュニティaは、頑張り過ぎる人が多すぎて、破壊されることもある。
あるコミュニティbは、頑張らな過ぎる人が増えすぎて、滅することもある。
c…、d…、~z。

それも、これらa~zのコミュニティを包含している、Aという1レベル上のコミュニティ群という世界における調和の中で、生まれたり滅したりしているのだ。そういうコミュニティ群がA~Zという数で存在しており、かつそれらを包含する、さらに1レベル上の群がある。さらにそれらの頂点にいるのが、この宇宙。





自分が頑張るのも、頑張らないのも、
人が頑張るのも、頑張らないのも、

自分頑張り過ぎてるなと思うのも、
自分もっと頑張りたいなと思うのも、

自分頑張れと気合いを入れるのも、
自分楽に生きろよと緩めるのも、

人に頑張れと主張するのも、
人に頑張らなくてもいいんだよと主張するのも、

もがく生き方も、
流れに乗る生き方も、

自分が繁栄するのも、
自分が滅するのも、

全て調和の中にある。
宇宙の手のひらの上、神の見えざる手に乗っているのだ。

人はどうあってもいい。
実は全てがニュートラル。




その中で、ただひとつ自分で決めることができること。
宇宙空間に光り輝く人の「意志」。それが、

「自分はどう生きたいのか」

なのだと思う。




地元は標高800mなので、萌芽はもうちょっと。




◆◆◆◆◆
2月:101km/84km        2月28日昼
3月:98km/84km        3月31日昼
4月:7km/84km        4月2日昼


2018年:290km/1000km
総計:6782.3/10000km(2012年~2021年末まで)

与党と野党とやる気の問題

テーマ:

相変わらず、月の3分の2を関東圏をグルっと回りながら仕事(古物鑑定)をしているのですが、その間はほぼ毎日温泉に入る生活をしています。

古物鑑定の結果を上げるためにチラシのポスティング作業をルーチンに組み込んでいるんですが、これで月に100kmは走ります。元々、この日記の最後にもここ5年間ずっと記録しているんですが、年間1000km走る、という自分との約束を設定しており、うまいことこの設定と仕事のルーチンを合致させることができて、稼ぎながら健康も促進できるシステムで、これで週に20~40kmくらい走ることになります。そして走った後は、宇宙最強の癒やし『温泉』というルーチンができている、という流れです。

残りの月3分の1は地元に戻ってワインぶどう畑に出るわけで、365日だいたいノンストップで働いていますが、軽い筋トレも含めて、体力が尋常でないほど鍛えられているので、この湧き出るエネルギー感はとっても幸せで、やっぱり日々の基礎体力作りはおすすめですよ。

しかし長期的に人生全体を見据えて快適に過ごしていくためには、自分の心身の限界を知りその限界レベルを上げていく取り組みをしつつ、もしそれを一時的に超えて心身に無理が生じても自律的に健全に戻せるシステムが必要で、10代の超回復力を持つ年齢ではないので、使ったら意図的に休ませるというルーチンも徹底しています。そのためにしっかり寝ますし温泉にも入ります。

温泉では熱いお湯で心身を一旦ドロドロにして交感神経を完全に休ませ副交感神経を最優位にした後、頭の先~指の先~足のつま先~全身の神経の隅々まで、ストレッチや揉みほぐしによって、心身を完全にリラックスする工程を経て、疲労を完全にリセットさせます。これもまあ幸せで(笑)。


という感じで今のところ、古物鑑定事業とワイナリー事業を2本柱として、あらゆるシーンで”肉体”と”脳”と”精神”と”魂”を高めたり気持ちよさを追求する仕組みを構築しているので、なんだかもう、やりたいことできて成長もできて…という感じで、ホント幸せです。ありがたいとしか言いようがありません。宇宙は優しい。そんな毎日です。

今の幸せを感じる感性を高めつつ、両輪として、長期的視野で人生の喜びが”逓増”していく生き方(『平成進化論』ご参照)を意図して行っていくと、将来は良くなるしかないわけなので、精神衛生上も本当に良いですよ。




さてようやく本題。

温泉というのは本当に素晴らしいもので、一通り温泉の気持ち良い儀式をルーチンワークした後、湯船に浸かりつつ「そろそろ温泉出るか」という頃合いになると、いつもモリモリっとやる気が出ます。

10年くらい考え続けると自分というものがわかってくるもので、どうすればやる気がモワッと出るか、どういう状況だと行動できなくなって後々後悔するか、など判明してくるので、魂の叫びに寄り添う人生にしていくべく環境を整備したり、自分の行動を誘導すべく日常生活の中にその仕掛けを無数に配置していくのですが、特に意図しなくても、日常の中で簡単に必ずやる気がモワッと起きるタイミングがあります。

それが、

・風呂に入っている時
・車を運転している時
・計画を立てている時

他には、非日常で誰でもよくあるパターンとしては、何かの講演に出た時とかに「人生変えるぞ!」と決意を新たにした経験がよくあると思います。

これ「どうしてなんだろう?」と思っていたんですが、3年位前「そうか!」と気づきました。

実はこれと同じ原理に基づく現象が、世の中で散見されます。例えば、政治業界。
野党の時にとても威勢よく与党を批判していた党が、与党になった途端何もできずに退陣してしまった事は記憶に新しいと思います。また世間では、様々な業界のリーダーが責任を背負い実行していることを、他人が「それは違うよ。こうやるのが正解なんだよ。」と批判する事等も。

よくあることですが、なぜでしょう。




誰でも頭の中は万能なので、どんな世界でも構築できます。脳内に限り”理想”を描き、その世界を満喫することができるわけです。

しかし”現実”は自分以外の無数の要素が存在するため、一筋縄ではいかないのが普通です。

・いざやろうと思っても「あーでもないこーでもない。あれがダメこれがダメ。」と大変なことばかり気になって一歩が踏み出せない。
・やり始めたとしても、面倒な作業も発生するし、やりたくなかったことも出てくる。
・人に批判されることもあれば、邪魔されることだってある。
・思い描いたことと全然違っていて「現実はなんて地味で泥臭いんだろう。」と嫌になったりする。
・完全無欠で清潔で100%楽しい頭の中に比べたら、一難去ってまた一難の現実。
・「こんなはずじゃなかった。これは自分のやりたいことじゃないのかもしれない。」とやめる理由が頭を駆け巡る。
・「うーんどうも気持ちが整理できていないな。とりあえず体調を整えよう。まずはチョコを食べよう。」と現実逃避する(笑)。

即ち、主体的に実行することと客観的に見ることとは、エベレストの頂上と深海の最深部くらいの隔たりがあるということです。




では、温泉入浴中、車の運転中、計画立案中、講演中、与党と野党等、に当てはめるとどうでしょう。

温泉に浸かっている時は頭の中で理想を妄想している段階だから泥臭い現実にはまだぶつからなくてもいい状況。車の運転中も運転をしていればいい状況。計画立案中もそう。講演中もまさにそうです。それぞれ、温泉に浸かる、車を運転する、計画を立てる、講演を聞く、という以外のことをしなくていい正当なる時間なので、上の政治の例で言えば、自分の人生における”野党の状態”なのです。無責任なことはいくらでも考えられるし、言うこともできます。

しかし、現実に実行する時、それはまさに自分の人生の”与党の状態”になるわけです。『7つの習慣』でいうところの、”自分の人生に責任を持つ”状況。第1の習慣の”主体性”を発揮するタイミング。今こそ行動する時。

しかし、多くの場合、人生の野党の時には威勢のよいことを思ったり言ったりしても、いざ与党になると行動できなくなってしまう場合が多いと思います。




ではどうすれば良いんでしょう。やる気がモワッと出るのは事実。・・・ならばこれを活かせば良いのです。
即ち、”野党の視点”という客観的視点はとても重要で、自分の世界に入り込みつつ、世界全体を俯瞰する、というバランスによって、より全体最適に物事を進めることができるので・・・。


つまり、人生にコーチをつける!


スポーツ選手が良い例で、目標達成のために必要な練習をコーチに管理してもらいます。
大抵は身体的に超キツイ動作を反復したりして身体を鍛えていくわけで、恐らくそれを選手本人が自身で設定し、自身のみで実行することは、よほどの意志力を持つ人間でなければなかなか辛いことなのだろうと思います。

そんな中、コーチは選手自身が設定した目標(魂の叫び)実現のために、厳しい練習を選手に課すわけです。コーチ自身で行うわけではないので、客観的に事象を観察しながら、超厳しい指示もすることができます。

アメリカの家庭にはホームドクターみたいな人が必ずいたり、弁護士さんがついていたりするというのを聞いたことがあるんですが、それと同じ。全ての人が、自分を客観的にみて、心身の健康、仕事、あらゆるシーンで全体最適へのヒントをくれる”コーチ”をつけると良いのだと思います。




・・・あれ?結論はありきたりになってしまいました。でも結局はそれをやるかどうか、ということになるんでしょうか。ではコーチをつけるという行動を促すためのコーチが必要かな。

わたし的には、自己の主体性を発揮する=最初の一歩の行動をする、ために、やっぱり『7つの習慣』をおすすめします(笑)。




※現在の政治については、地政学的に仕方がないことですが不毛な足の引っ張り等せず、国の全体最適のために健全なる与党と健全なる野党がお互い切磋琢磨する、そんな構造に変化していくことを希望しています。




僕の人生を変えた本。
これが心の健全化=”精神”の最強の癒やし、にもなっています。



12月:84.0km/84km 12月31日昼 
1月:84km/84km 1月28日昼 
2月:43km/84km 2月16日昼 

2017年:1137.0/1000km 
2018年:127km/1000km 
総計:6619.3/10000km(2012年~2021年末まで)

旨い人生

テーマ:

年末年始の数日間は自宅が比較的多く、料理を作る機会が増えます。

料理は結構得意(主観)で、大学生の時の数年間~社会人初期にかけて、ずっと自炊をしていて、数十種類くらいのレシピを持っていました。
その中の最も好きな料理の一つがカレーだったのですが、それはもう超こだわって作ったりしていました。

そのこだわりは、食べるまでの準備にまで及びます。
即ち、当時月に一度程のペースでカレーを作るのですが、最長で一ヶ月間程、一切の”カレー味の食べ物”を食べないように我慢するのです。するとどうなるか・・・。

自分の中での「カレー食べたい!」という欲求(名付けて【カレーエネルギー】)がMAX最高極限まで高まるのです!自分の中のカレーの要素を枯渇させ枯渇させ、欲求を抑えつけ我慢に我慢を重ね、そしてもう爆発してしまう・・・!もう我慢できないっ・・・!!

というところまで持っていった状態で、満を持して全ての力を注いで作ったMyカレー。
ご飯を美味しく炊き上げ、皿に盛りカレーをかけ、そして机に置いて。

「うおおおお・・・。い・た・だ・き・まーーーーす!!!!」

パクっ・・・。


!!!!!!カッ(目を見開く)!!!!!!



「うっっっっっウマ~~~~~~~~っ!!!!!」


至福。



『今ここの幸せを感じましょう』

とよく言いますが、僕の性格の傾向としては、今、ポンと快感を得てしまうよりも、我慢して努力して頑張って、そして達成して喜びを得る、という形も捨てがたく、喜びを増幅するために準備する過程も含めた”物語”全体に幸せを感じる人間なのかもしれません。




さて、そんな至福のMyカレーですが、毎月作るので、試行錯誤を繰り返します。どうすればもっと美味しくなるのか。

で、ある時、徹底的にアクを取ってみました。野菜や肉を煮込むと浮いてくるアク。
これだけと取れば、いつもとは違った、澄んだ透明感のあるカレーができるのではないか?と。

しかし、実際は違いました。そっけなくなってしまったのです。なんかこう、のっぺりと全く深みのない味。一ヶ月我慢してこの味になってしまったということでガックリとしながら、しょうがないのでバターを入れたりコンソメを入れたりしてみましたが、いつものあの、深みのある味にはならない。「なるほど、ある程度のアクは深みでもあるのだ。」と学びました。




ところで、似たようなお話が、ワインの香りでもあります。
香りは空気中に揮発する物質が鼻の受信機に到達することで感じることができるのですが、香り検出器という数百万円するような機械があり、それでワインの香りを測ると、何十種類もの香り物質が検出されます。人間の鼻は、その何十種類の香りを総合的に判断して、良い香りかどうかを嗅ぎ分けるそうです。

では、ワインについて、どんな香りが”良い香り”なのか。
その一つの要素として・・・、ナント、

『3日間履いた靴下のような匂い』というのがあるのです!(笑)

この匂いを抜いてしまうとどうなるか。なんと、そっけなくて物足りない香りになるそうです。それ単独では臭くて鼻がひん曲がってしまうような匂いも、微量を追加して全体と調和すると、深みをもたらすのに欠かせない要素となるのです。(もちろんそれが多過ぎてもダメです。)



世の中に存在する、嫌いな人、辛い出来事、都合の悪い事象。

案外、人生全体から俯瞰したら、アクみたいなモノじゃないのかなぁ、と思うのです。




くぅちゃんは歯を磨かないので口がとても臭い。
なのに、その口でなめた身体全体はとてもいい匂い。
太陽の匂い。