鏡山 次郎
私は、僧侶の位については詳しくは知らないのですが、勧修寺の歴史には「長吏(ちょうり)」「別当(べっとう)」「検校(けんぎょう)」などの言葉が出て来ます。「長吏(ちょうり)」は、官位の高い者で、ある寺の首長である僧。「別当(べっとう)」は、職務全体を統括・ 監督する地位。「検校(けんぎょう)」は、元々は平安 時代・鎌倉時代に置かれた寺院や荘園の事務の監督役職名でしたが、室町時代以降、盲官の最高位の名称として定着したものとぐらいに考えておいて良いのではないかと思います。
延喜2年(902)3月、3月、済高僧正が、はじめて勧修寺の別当に補せられます(『山科町誌』)。翌延喜3年(903)7月23日(27日説も有)、醍醐天皇が勧修寺に行幸し、僧綱以下107人の高僧を招き、刺繍曼荼羅及び宸筆の法華経を供養し、勅会を開き、母胤子の冥福を祈りました。延喜5年(905年)9月21日には、醍醐天皇が承俊を勅使として勧修寺に年分度者二名を下賜します(『山科町誌』)。には、年分度者(ねんぶんどしゃ)とは、中国や日本のように、各年の僧尼の出家得度の定員 が、律令(僧尼令)などの国家の規律によって国家の統制を受けた社会において、規定されていた定員に入った者を指しているとされます。まあ、高僧が派遣された訳です。同年に勧修寺は「定額寺」に列せられています。定額寺(じょうがくじ)とは、奈良・平安時代に官大寺・国分寺(尼寺を含む)に次ぐ寺格を有した仏教寺院のことです。
延喜7年(907)10月17日、胤子の母である宮道列子(みやじたまこ)が亡くなります。列子は天皇の外祖母として手厚く葬られたといいます。『宇治郡名勝誌』に「勧修寺栗栖野(京都市山科区勧修寺西栗栖野町)に葬った」ことを記しているため、この地(「伝・宮道列子墓」)ではないかと伝えられていますが、「この陵墓は『中臣十三塚』と関係がある」という説もあり、本当のところは良くわかっていません。
この宮道列子の遺跡は円墳になっており周囲に空堀があります。「宮道古墳」とも呼ばれているようです。「中臣十三塚古墳群」で、今はっきりとわかるのは、「稲荷塚古墳」とこの「宮道古墳」の二つだけだと言われています。古墳の下に、「宮道朝臣列子墓」と書いた石碑が建っています。これは昭和47(1972)年6月11日に洛東ライオンズクラブが建立したものです。
同年(907)には、藤原胤子の墓が御陵十陵の内に加えられ、「小野陵」と称されます。
また勧修寺で有名な「氷室池」ができたのもこの頃です。延喜年中(901~922)に、山城国に196カ所の氷室池がつくられ、風神・雷神が祀られます。その中で延喜7年(907)に造営された栗栖野氷室池(あるいは小栗栖氷室池)は、「その随一」といわれ、現在の勧修寺の氷室池はその面影を残すものとなっています。
勧修寺境内の「氷室池」は、平安時代の貴族の庭の代表的なものとされ、大小3つの島が浮かび、東山を借景に15の景勝が設けられ、「典雅の極致」と評する書もあります。昔は実際に舟遊びにも使われたようで、その頃の呼び名は「栗栖野氷室の池」と呼ばれ、毎年1月2日にこの池に張った氷を宮中に献上し、その氷の厚さでその年の五穀の実りを占ったといわれてます。この池は、かつてさらに南にも広がった広大な池でした。
(7へ続く)