勧修寺の歴史について(5) | ふるさと会のブログ

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鏡山 次郎

 醍醐天皇の即位にあたっては、有名な宇多天皇による「寛平御遺戒(かんぴょうのごゆかい)」というものがあります。これは13才で即位した醍醐天皇のために書かれたもので、叙位・任官をはじめとする朝廷の政務儀式、天皇の日常の行動から学問などについての注意が示されているものです。また、宇多天皇の譲位の事情や当時の宮中の人物評(藤原時平・菅原道真・平季長・紀長谷雄ら)も行っています。特に藤原時平を「若いが政理に通じているので顧問にして輔導に従うべき」とし、菅原道真「鴻儒で深く政事を知るもので“新君之功臣”として信任すべき」と説き、醍醐天皇の立太子も譲位も道真だけに相談して決めたと記しています。幼い天皇の即位に、心を砕いていた父親の気持ちがよくわかるものです。
 醍醐天皇の母(胤子)は、醍醐天皇即位の前年、寛平8年(896)6月30日に死去します。勧修寺の西方、大日山の地に葬られたとあります。今日の「醍醐天皇御母小野陵」がそれにあたります。わずか12才の天皇にとっては、母への切ない思いがいっぱいであったに違いありません。それは、また後に醍醐天皇が母胤子に対してあらゆる供養に取り組むことにつながります。
 寛平9年(897)7月13日に即位した醍醐天皇は、わずか6日後の7月19日には、前年に死去した母胤子に対して「皇太后」の名を追贈します。そして、同年10月22日には、夫であった宇多法皇が胤子の墓(小野陵)に行幸し、弔っています。
 そして昌泰3年(900)『勧修寺縁起』等によりますと、醍醐天皇は母胤子の菩提を弔うため、母の生家・宇治郡の大領(郡司)宮道弥益(みやじのいやます)の邸宅を寺に改めました(『勧修寺縁起』等)。これが勧修寺です。開山は東大寺出身の法相宗の僧である承俊律師で、本尊は千手観音。寺号は天皇の祖父にあたる藤原高藤(たかふじ)の謚号(しごう)をとって勧修寺と名付けられたと言います。『勧修寺縁起』によれば、勧修寺は胤子の同母兄弟である右大臣藤原定方(さだかた)に命じて勅使とし使わし、造立させたといいます。同年10月21日、宇多法皇が胤子のの墓(小野陵)に行幸し、弔うと共に勧修寺にも立ち寄っています。

 


 この勧修寺の創建年代については、昌泰3年(900)とするのが一般的ですが、異説もあり、勧修寺は延喜5年(905)に、定額寺に列せられていますが、この時の太政官符には「贈皇后(胤子)が生前に建立した」旨の記述があり、これに従えば、胤子の没した寛平8年(896)以前の創建となります。900年より少し前に、すでに建立されていた可能性もあるということです。
 また、勧修寺の隣にある宮道神社は、宮道氏ゆかりの神社で、寛平10年(898)に創建され、その後、宮道弥益、宮道列子、藤原高藤、藤原定方、藤原胤子等が合祀され宮道大明神・二所大明神とも称されています。延喜式神明帳に記載されている古代「山科神社」にあたるのではないか説も有力視されている神社です。

 (6に続く)