勧修寺の歴史について(4) | ふるさと会のブログ

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山科の魅力を山科の歴史を通じて記録しようと思います。

鏡山 次郎

 少し話がそれるかも知れませんが、光孝天皇に至る道筋と、山科との関係についてもふれてみたいと思います。
 古代の山科において重要な出来事の一つに、天智天皇陵墓(御陵)の造営があります。その途中に壬申(じんしん)の乱があって、奈良時代は天武天皇の系統が天皇となっています。その後、延暦13年(794)に桓武天皇が平安京に遷都します。桓武天皇は天武天皇の血もひいてはいますが、天智系の人で、天智天皇の「ひ孫」にあたる人です。文献などを読みますと、たとえば、『史料 京都の歴史⑪山科区』という本によれば、一説では、桓武天皇は曾祖父(そうそふ)である天智天皇の治世を理想とし、それにあやろうとして天智天皇陵の横に都を持ってきたとされています。

 


 その桓武天皇の孫に、仁明(にんみょう)天皇がいます。仁明天皇の従兄弟(いとこ)には、遍昭(へんじょう)僧正がいて、北花山の元慶寺を建立した人です。また仁明天皇の皇后には、藤原順子(のぶこ)がいて、これは安祥寺を建立したと言われ、毘沙門奥の「後山階陵(うしろやましなりょう)」に祀られています。また仁明天皇の第4皇子は人康(さねやす)親王と言い、四ノ宮に山荘を建て住んだと言われ、地名「四ノ宮」のもとになっています。
 光孝天皇は、その54代仁明天皇の第3皇子です。仁明天皇と藤原順子との間にできた第1皇子である文徳(もんとく)天皇が55代となり、その子清和(せいわ)天皇が56代、さらにその子陽成(ようぜい)天皇が57代と続きますが、文徳の系統はここで絶え、文徳の弟であった仁明天皇第3皇子の光孝天皇が第58代天皇となります。光孝天皇の母は藤原沢子で、人康親王とは同母の兄弟です。
 仁和(にんな)3年(887)、光孝天皇は、重態となりますが、それまで立太子を行っていませんでした。これは当時の政治状況を配慮したものと言われています。しかし、いよいよの時に、当時の政治的実力者であった藤原基経(もとつね)に、第7皇子であった源定省(さだみ)を天皇にしたいという内意を伝えます。藤原基経は自分の思いとは違っていたようですが、内意を大切にして、基経が源定省を奏上(そうじょう)して、天皇がそれを許諾するという形で、源定省が皇室に復帰し、宇多天皇となった訳です。
 宇多天皇は光孝天皇の第7皇子であり、光孝天皇の内意なしに、宇多天皇はありえませんでした。源定省(宇多天皇)は、当時すでに天皇になる前から人格・政治力共に優れており、人心から認められていたのだと考えられます。
 宇多天皇が源定省時代にすでに、藤原胤子は妻となっており、後に醍醐天皇になる長男敦人(あつひと)はすでに生まれていた訳ですから、胤子は良い人に嫁いだと言うべきではないでしょうか。
 そして、寛平9年(897)7月13日、醍醐天皇が13才で即位します。左大臣は藤原時平、右大臣は菅原道真で、「延喜の治」と呼ばれ、後の世に「政治の理想」とされた時代でした。(5に続く)