「旅」と「ふるさと」 | ふるさと会のブログ

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山科の魅力を山科の歴史を通じて記録しようと思います。

山科人

旅・・・・・(日常、生活している)住まいを離れて、一時、他所に行くこと。また、他所に行く途中。(明治書院『詳解古語』)

「たび」という語は「()ぶ」「賜ぶ」「食ぶ」という語と関係が深い。

「給ぶ」は「与ふ」「授く」の尊敬語である。本来は身分の高い人がくださる、お授けになる、という意になる。

したがって「食ぶ」はいただく、飲食物を上位者から頂戴する、という意なのである。

ある日の職員室。昼休みに女子の生徒に「もう昼飯食ったか?」と聞くと、「食った」との答え。すかさず「女の子が『食った』、とは何ですか!」と年配の女性教諭がそばで注意をする。でも、これは生徒が正しい。本来「食ふ(う)」は飲食物をとる動作を表す正しい日本語なのである。現代語の「食べる」は、いつしか謙譲の意として自分の動作に使うようになっていったのである。したがって「食べる」は自分を卑下した意味合いが強い語であった。

さて、万葉集の時代、「旅」にはこんな用例がある。

 

秋田刈る旅の廬にしぐれ降り我が袖濡れぬ乾すなしに(巻十 2235

(秋の田を旅の仮屋に時雨が降って、私の袖は濡れた。乾してくれる人もいなくて。)

「この『旅』は、家を離れて泊まること。所領の田庄に来たのであろう。」という脚注(岩波書店『新日本古典文学大系』)がついている。

農作業のために仮庵を作って田んぼの掘っ建て小屋に寝泊まりすることすら「旅」と呼んでいた例である。他所に行くのだが、その目的はあくまでも仕事なのである。仕事、すなわち生活の糧を得るためである。「食ぶ」ために出かけて行く、もっと言えば、「稼ぎ」のための旅なのだ。

他所の土地に何らかの必要があって、それは稼ぎが主目的で出ていかなければならない。それが本来の「旅」であった。

沖縄にはその古い日本語、すなわち「たび」の本来の意味が残っている。20年ほど前に92歳で亡くなった、沖縄生まれの義祖父は「旅に出てもう80年になる」と言っていた。小学校を卒業してすぐ、親に連れられて親戚のいる大阪に出てきたのだそうだ。戦前、沖縄にはこれという仕事もなく、先に本土で働いている親戚を頼って村を出た、という話は義祖父に限らずよく聞く。本土に出てきて結婚、子供や孫に囲まれ、何十年も暮らしてきた。そんな人がいまだに「旅を続けている」というのだ。

先日も沖縄民謡の有名な女性歌手で、私と30年以上の交友があるОさんと話をしたことがあった。80歳を超えてなお現在も全国でライブ活動をされている。「先月は東京の方へ旅に行ってたものだから」と、那覇には不在で連絡が取れなかった理由を語ってくれたのを聞いて、「ああ、まだ沖縄では万葉時代の日本語を使っている」と感慨深く思ったことだった。このように旅はあくまでも稼ぎを伴う行動であった。

先ほどの義祖父はこんなことも言っていた。「戦前、本土で暮らしがしんどくなったら、子どもや妻を沖縄に帰した。沖縄に帰れば、近所や親戚が面倒をみてくれるので、何とか生活ができた。また、景気が良くなったら、家族を再び呼び戻した」。地縁・血縁のつながりの強い沖縄ならではの話である。ふだんは煩わしい人間関係がいろいろな障害を生み出す地にあって、「いつかこの地を出たい」と思う人は多いと聞く。借金取りも島をいったん出れば追って来ないともいう。

ふるさとという本拠地があって、それは日々の生活の基盤ともなる心の拠り所でもある。そしてその気持ちは、ほぼその人一代の限りで終わることになる。そして子どもの代は新しいふるさとができていくことになる。しかし、私の妻は両親が沖縄出身で京都に生まれ育っているのに、ふるさとは沖縄だ、ときっぱり言い切る。沖縄に関していえば、この意識を持つ人は多いようだ。歴史的な背景が影響するのかもしれない。

義祖父は異郷の地で亡くなった。きっと、ふるさと沖縄を思いながら息を引き取ったにちがいない。

 

 

また旅の途中、大阪で亡くなった「旅人」芭蕉は

旅に病んで夢は枯野をかけめぐる

と詠んだ。一生、旅を続けたかった人もいる一方、いつか「ふるさとに帰りたい」と思う人がいるのだ。そして代々この地で暮らしているという人もいる。

この山科で、どれぐらいの人が山科を「ふるさと」と思いながら最期を迎えるのだろうか?