勧修寺の歴史について(3) | ふるさと会のブログ

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山科の魅力を山科の歴史を通じて記録しようと思います。

鏡山 次郎

 このお話しの最後の方に、「この高藤の君は栄達して、大納言にまで成った。そして山科で生まれた例の姫君を、宇多天皇の女御として入内させた。すると間もなく女御は、醍醐天皇をお産みした。男子二人もそれぞれ栄達し、祖父の弥益は四位に叙せられて、修理の大夫となった。醍醐天皇の即位後には、高藤は内大臣にまで上って行ったのである。」とありますが、ここの所には、私は少し疑問があります。歴史的事実と合わないのではないかと思うのです。

 宮道列子の子、胤子が光孝天皇の第七皇子源定省(さだみ)(後の宇多天皇)と結婚するのは、元慶8年(884)の事です。その時は、夫である源定省は、臣下になっていて、源氏姓でした。そして、後の醍醐天皇になる長男維城(のち敦仁と改名)を産んだのは、翌年の元慶9年(885)の事です。
 そして、その2年後、仁和3年(887)年に、源定省が皇族に復帰して即位、宇多天皇となります。つまり、醍醐天皇の誕生は、胤子の夫である源定省の出世によってもたらされたと言うべきなのではないかと思います。こちらの出来事の方が実は「玉の輿伝説」以上に、もっと重要だったのではないでしょうか。ただ、胤子の入宮はこれより後になり、仁和4年(888)9月22日、胤子は宇多天皇の更衣となり入宮します。そして寛平5年(893)1月22日に、胤子は四位下に叙され、女御となります(寛平4年説もあり)。同年、4月には、敦仁親王が立太子となります。
 ここで不思議なことがあります。光孝天皇の第七皇子であり、臣下に下っていた源定省がなぜ、天皇になり得たのか、ということです。普通に考えれば「第七皇子」ですから、天皇への道は閉ざされていると考えてしかるべきです。まして臣下の身です。
 これにはどうも、父親である光孝天皇が大きく関わっているようです。

(4へ続く)