鏡山 次郎
この藤原高藤(たかふじ)という人ですが、藤原鎌足-不比等-房前(ふささき)-眞楯(またて・藤原北家の祖)-内麿(うちまろ)-冬嗣(ふゆつぐ)-良門(よしかど)-高藤(たかふじ)と続く系統で、後に藤原北家の「勧修寺流」の祖となっています。娘である列子には、胤子の他に、定国(さだくに)・定方(さだかた)なども生まれ、胤子の子である醍醐天皇の即位と共に、それぞれ出世をしています。
すでに「玉の輿伝説」については、よくご存知だとは思いますが、今一度紹介させていただきたいと思います。これは、平安末期に出されました『今昔物語集』の中で書かれていたものが出典で、ご紹介するのは福田晃・真下美弥子『京都の伝説-洛中・洛外を歩く』淡交社平成6年(1994)3月15日。114p~120pからの引用です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昔、藤原良門という人の子に、高藤という人がいた。高藤は幼い頃から鷹狩を好んでいたそうな。
この高藤が十五、六歳の九月のある日、鷹狩りに出掛けて行った。南山科という所の山のあたりで狩をするうちに、にわかに空が暗くなって時雨が降りしきり、雷鳴もとどろいた。お供の人々は雨宿りしようと、ちりぢりに散らばって行き、高藤の君は舎人一人を従えて、西の山の麓の家を見つけて馬を走らせて行ったという。
その館は周囲に檜垣を廻らした、簡素な寝殿造であった。従者と馬とを軒下に置き、高藤はただ一人でその板敷に坐って、雨の止むのを待っていた。しかし風雨はいっこうに止まない。日も暮れかけてきた。さすがの高藤も心細く思うところへ、家の後方からあるじと思われる、狩衣姿の四十ばかりの男が出て来て、「あなたはどなたですか、なぜこんな所においでになったのか」と尋ねる。高藤が「鷹狩に来て雨にあったのです」と答えると、男は「雨が止むまで、どうぞここにいて下さい」と告げたという。
あるじは従者にも二言三言問いかけて、そこに居るのが高藤であることを聞き出すと、驚いて家の中へ入って行った。しばらくして準備ができたらしく、「いやしい住居でございますが、どうぞ中へお入りになって下さい。濡れたお召し物も干さなくてはいけません。馬にも草など食わせましょう」と、高藤を案内した。よく見れば館は由緒ありげにしつらわれ、内部には品の良い調度が整えられていた。ほっとした高藤が装束を解くと、あるじは「狩衣や指貫などを焙(あぶ)って干しましょう」と言って、持ち去って行ったという。
高藤がしばらくの間臥しなから見ていると、扉が開いて年のころ十三、四ばかりの少女が、片手に高杯を持って入って来た。慣れないのであろう、扇で顔を隠して恥かしがっている。高藤が「近く寄れ」と言って、そっと近づいたのを見ると、顔つきや髪のかかり方など、きわめて美しい。運んだものを置いた後に、帰って行く後ろ姿も優美である。少女はもう一度やって来て、酒の肴などを置いて帰って行った。一日中鷹狩をしていた高藤は空腹のため、それらを全て飲んで食べ、身を横たえたそうな。
高藤は疲れはしていたものの、やはり今見た美少女のことが気にかかってならない。そこで家のあるじに、「独り寝は怖いので、先程の人に来てもらいたい」と願った。参上したその少女を近く見ると、前にもまさって美しい。高藤は心をこめて行く末を契り明かしたのだった。夜も明けたので出発という時に、高藤は身に付けていた大刀を少女に与えて、「これを自分の形見と思って、他の男とは決して結婚しないでほしい」と念を押した。その時は後髪を引かれる思いで出発したという。
馬に乗った高藤の一行がしばらく行くと、供の人々も寄り集まって来た。帰宅してみると父は、高藤のことを一晩中案じていた。父が以後の鷹狩に難色を示したため、山科へは出にくくなってしまった。その上しばらくすると、あの時ただ一人山科の館を見た従者も、田舎へ帰って行った。高藤は少女のことを気にかけながらも、そのまま四、五年やり過ごしてしまった。そのうち父も亡くなり、高藤は伯父の良房の大臣の後見によって、ようやく成長していったそうな。
山科の出会いから六年後、高藤は例の従者が再び田舎より上ったことを聞いた。早速召し出して、「以前鷹狩りで雨宿りした家を覚えているか」と尋ねると、「たしかに覚えております」と言う。高藤は勇んで、「それならすぐに行こう、鷹狩りの装束で」と言い、その日のうちに阿弥陀の峰を越して、夕刻には例の館に到着したという。
二月中旬のことで、館の前の梅の枝は散り果てて、鶯の鳴き声さえ哀れに聞こえる。あるじを呼び出すと、思いがけない来訪に戸迷いながらも、さすがに喜びを隠せない様子で出て来た。高藤が「いつかの少女は」と問うと「おります」と答える。喜んで内へ入ると、かの人は几帳に隠れるように控えていた。以前よりずっと大人びて、美しさは類もない。ふと見ると、その傍に五、六歳ばかりの気高く美しい少女が居るではないか。「これは」と問いかけても、女は胸が一杯になって涙ぐむばかりである。父のあるじを呼んで問うと、「あの時あなた様がおいでになって以来、誰にも会わせておりません。もとより幼なかったので、誰もあの子に近付くようなことも、ございませんでした。おいでになった頃に懐妊して、生まれた子でございます」と答えた。見れば枕元に、かつての大刀が置かれている。その幼女は高藤にそっくりなのであったそうな。
感激の再会を果たした翌朝、高藤は「すぐに迎えに来るから」と言って、館を出た。その際に「この家のあるじは、一体誰なのだろう」と尋ねると、この郡の大領、宮道弥益(みやじのいやます)であるとのことだった。高藤はこのような契りも、前世からの深い因縁によるものだろうと考えて、何日か後には、この女性と例の幼い姫君、それに弥益の妻もともに、自邸へ迎えた。その後の高藤は他の女に気を移すこともなく、この女性を大事にもてなした。ほどなく二人の男の子も生まれたという。
この高藤の君は栄達して、大納言にまで成った。そして山科で生まれた例の姫君を、宇多天皇の女御として入内させた。すると間もなく女御は、醍醐天皇をお産みした。男子二人もそれぞれ栄達し、祖父の弥益は四位に叙せられて、修理の大夫となった。醍醐天皇の即位後には、高藤は内大臣にまで上って行ったのである。
宮導弥益の館を寺にしたのが、今の勧修寺である。勧修寺の向かいにあたる東側の山の麓には、弥益の妻によって大宅寺が建てられた。弥益の家の辺をなつかしく思ったのだろうか、醍醐天皇の御陵は、勧修寺の近くに建てられている。(『今昔物語集』)
*福田晃・真下美弥子『京都の伝説-洛中・洛外を歩く-』淡交社、平成6年(1994)3月15日。114p~120p
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(3へ続く)