勧修寺の歴史について(1) | ふるさと会のブログ

ふるさと会のブログ

山科の魅力を山科の歴史を通じて記録しようと思います。

鏡山 次郎

 寺名「勧修寺」は「かんしゅうじ」「かんじゅじ」「かしゅうじ」などとも読まれることがありますが、お寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としています。一方、山科区内に存在する「勧修寺○○町」という地名の「勧修寺」の読み方は「かんしゅうじ」です。勧修寺門跡である筑波常遍氏は「正式の読みは『かじゅうじ』である」と著書で明言されています(筑波常遍・横山健蔵『京の古寺から4 勧修寺』、淡交社、1995)。

 


 勧修寺に関しては、『今昔物語集』の「玉の輿伝説」というものが有名ですが、それがいつの話であるかという点について言えば、必ずしもはっきりしているとは言い切れません。
 はじめに、宮道(みやじ)家についてですが、昭和5年(1930)に発行された『山科町誌』の中には「承和(じょうわ)2年(835)11月、主計頭従五位下宮道吉備麻呂、玄番少允宮道吉備継(きびつぐ)が宿禰(すくね)姓を改めて朝臣(あそん)姓を賜わる、とあり、宮道の祖と考えられる。」と書かれ、「宮道弥益(みやじいやます)は、漏刻頭・主計頭を経て、後に宮内大輔(くないだいすけ)となり、従四位下に進む。」とあります。
 宿禰(すくね)は、八色の姓で制定された、姓(カバネ)の一つで、真人(まひと)、朝臣(あそん)についで 3番目に位置します。大伴氏、佐伯氏など主に連(むらじ)姓を持 った神別氏族に与えられたとされています。
 宮道弥益の妻は、大宅氏の出身とされています。大宅氏は、その頃は山科区大宅地域を中心に勢力を持っていた豪族と考えられ、物部氏・和迩(わに)氏の流れを引くとも言われています。現在の大宅にある「岩屋神社」には三柱の神が祀られていますが、その一柱には物部氏の祖神であるニギハヤヒノミコトが祀られているのも、何らかの関係を伺わせます。
 こうした中で藤原高藤(たかふじ)と列子(たまこ)との出会いになるのですが、前述の『山科町誌』には、「天安元年(857)9月、藤原高藤、南山科栗栖野の地に鷹狩りを催す。」とあります。
 ただこれには私は疑問があるのです。あとで触れますが、話ではこの次の年には醍醐天皇の母になる胤子(たねこ)が生まれたことになるわけですが、そうすると胤子は40才で醍醐天皇を産んだことになります。40才での出産と言えば、今でも高齢出産ですが、当時では13才~15才程度で結婚をしていたとすれば、これは余りにも不自然です。私は、思うのですが、「天安元年(857)」という年は、胤子の母である列子が生まれた年ではなかったのだろうかと。そうすると、胤子が醍醐天皇を出産した年や、宇多天皇との結婚など、けっこうつじつまが合ってくるのです。そうすると、逆算して、「玉の輿伝説」が生まれた、高藤の鷹狩りは、だいたい貞観12年(870)頃の事ではないかと推測しています。それから、5~6年後に藤原高藤は、宮道列子と胤子を自宅に引き取ることになります。(2へ続く)