蓮如上人と山科本願寺(1) | ふるさと会のブログ

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山科の魅力を山科の歴史を通じて記録しようと思います。

鏡山 次郎

●山科・野村(西野・東野)という地名

 はじめに、この地、「山科(山階)」「西野・東野」の地名の由来についてですが、日本書紀の天智8年(669)5月5日条に「天智天皇、山階(やましな)野に縦猟(かり)したまふ」という言葉がありまして、「山科」という名前が初めて出て来ます。「しな」というのは、もともとは坂道、階段、階層などを意味する言葉で、山科盆地の地形から名付けられたと言われています。
 この日本書紀に出てきます「山階野(原野)」がやがて開拓され、人が住み始め、この地は「狭野(さの)里」と呼ばれました。そして中世には「野村」という村ができ、江戸時代に二つに分かれ「東野」「西野」と称するようになった訳です。従って蓮如上人のおられた頃は、まだ「野村」と呼ばれていまして、山科本願寺を別名「野村御坊」と呼ぶ場合もあります。
 山科には48カ所の埋蔵文化財がありまして、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代の遺跡もあり、山科には古くから人々が住んでいたことがわかります。また、山科の遺跡群の中でも山科本願寺遺跡はたいへん重要な位置を占めております。
 蓮如上人が来られる前の山科の様子ですが、古代から交通の要衝であって、渤海国通信使が通ったり、平安京遷都の際には、桓武天皇が遊猟(ゆうりょう)されたりもしています。また平安時代には貴族の別荘地として、山科の各地に多くの社寺が建立されています。

●山科本願寺への注目

 中世になりますと、この山科に蓮如上人により「本願寺」が建立されます。この本願寺については、いろいろな面から研究者たちが注目しております。
  その一つは、「城郭(じょうかく)史」からの注目です。お城の歴史というのは、戦国時代の初め頃までは通常山の上にあった「山城(やまじろ)」が中心だったのですが、それが徐々に山の下に降りていって、豊臣秀吉ぐらいになるとようやく平野にお城ができあがっていきます。
 ところが山科本願寺は、平野の真ん中に、まず堀を掘って、土を積んだ「土塁」というものをつくって外敵からの攻撃に備えるという形を取っています。これが戦国時代のお城のモデルになっているとされ、お城の歴史を考える上でも、非常に画期的な方法を採用している所が、注目をされている訳です。
 もう一つは「都市史」の面からの注目で、本願寺を中心に「まち」ができあがっていく。「まち」というものが山科の中で、非常に栄えて存在していました。それまでの日本には、京都や鎌倉といった「政治都市」はあったのですが、それ以外に「まち」というものは、ほとんどありませんでした。だから、日本にとっての「まち」の形成、中世の「都市」というものがどういうふうにできあがっていったのかを研究する上で、非常に重要だとされています。
 三つ目は「仏教史」からの注目で、司馬遼太郎さんと山折哲雄さんによる『日本人とは何か』という本の中で、次のように述べられています。
 「私は、仏教が本当に民衆化するといいますか、大衆化するのはやはり15、6世紀以降だと思っているのです。その大衆的な信仰の核になっていたのが、死んだら極楽浄土に行くのだということです。この浄土信仰というものが、日本の仏教における大衆版の代表だと思っておりまして、そういう点では、15世紀の蓮如とか、16世紀にかけての一向一揆の民衆運動というのは大きな役割を果たしたと考えています。もし日本の歴史の上に宗教改革という時代があるとすれば、それは決して今まで常識的に言われてきたように13世紀の鎌倉時代ではなく、15、6世紀だと思うのです。・・・政治に対する影響力でも民衆への浸透度からいっても鎌倉時代は15、6世紀の民衆運動の層の厚みとは問題にならない。」と、宗教史に果たした蓮如上人の役割に注目しています。

●中世の山科本願寺

 「本願寺」についてですが、元々は、浄土真宗を開いた親鸞聖人が亡くなって、京都の東山の大谷という所にお墓が作られます。そこに最初に出来上がっていったのが「本願寺」というお寺になるわけです。
  それが八代目の蓮如上人が出てこられた時に、非常に大きくなって全国的な教団へと発展していきます。その時に、山科に本願寺が建てられます。全国的な展開に合わせた形で、山科本願寺という大きなものが必要になってきた訳で、山科本願寺は本願寺の社会的影響力の増大に関わりながら建立されてきたと言えます。
  蓮如上人は「東山の大谷にあった本願寺を再興したい」という思いで、山科本願寺の建設に取りかかりました。だから、山科本願寺は、大谷本願寺の復活・復興という意味をも持っていると思います。

 真宗大谷派 山科別院長福寺 蓮如上人像


 文明10年(1478)、蓮如上人は野村郷の「柴の庵」に移られます。そして、西野の海老名五郎左衛門が土地を寄進し、山科本願寺の造営が始まります。そして、文明12年(1480)、御影堂(ごえいどう)を建築し、親鸞聖人のご真影(ごしんえい)を大津より移します。文明13年(1481)、阿弥陀堂の建築が始まり、これは翌年の文明14年(1482)に完成をします。そして、延徳元年(1489)に、蓮如上人は南殿に隠退され、明応8年(1499)3月25日に、蓮如上人は、山科本願寺で死去されます。85歳でした。
 蓮如上人はなぜ本願寺建設に「山科」を選ばれたのか、ということですが、いくつかの理由が考えられます。
 一つ目は、山科は交通の要所であるということです。近江から陸路で三河へ、水路で北国へ通じます。また、伏見・大阪・奈良にもつながっています。
 二つ目は、北国や東海や近畿にひろがる浄土真宗の地盤のほぼ中心であるという点です。
 三つ目は、山科の自然的環境です。大谷晃一さんの『蓮如 本願寺王国を築いた巨人』には「(1478年)正月29日、蓮如上人は『ここは往古より無双の地ぞ』と、感嘆の声をあげた。盆地が手頃に広がっている。東は音羽の山々が連なり、西に東山の連峰がおだやかに横たわる。水は清冽(れつ)に流れる。人少なく、閑寂(かんじゃく)に包まれる思いがする。『見ろ、山深く地静かで、さらにわずらわしきこともなく、里が遠く、道はよく通じ、かまびすしいことはないぞ』と書かれています。
 そして、四つ目には、大谷本願寺との位置関係です。
 山科本願寺は、東に向いて建っていました。浄土真宗の教えは、「阿弥陀如来によって救われる」ということを根幹にしていて、阿弥陀如来は「極楽浄土」におられて「西方(さいほう)極楽浄土」と言って、西の方角にあります。だから参詣は西の方を向いてお参りをしますから、本堂は東向きに建てるということになる訳です。
  北陸や東海から来た人は、山科に入って、正面に迎えているのが山科本願寺ということになります。そうしますと、山科本願寺のお堂の裏手に東山があり、親鸞聖人のお墓があります。そして、さらにその先に「極楽浄土がある」ということから考えると、山科に東向きに建てるというのは、たいへん理屈に合っていると考えられます。
 こうして、山科本願寺が出来上がりました。蓮如上人は、「この御影堂(ごえいどう)を建立 成就(じょうじゅ)して、心安く往生せばやと念願せし事の、今日今夜成就せりと、嬉しくも尊くも思ひ奉(たてまつ)る間、その夜の暁方(あけがた)まではついに目も合わざりき」つまり、「喜びで眠れなかった」と語っておられます。
  山科本願寺は、発掘調査の図面や古い絵図から見ますと、南北1km、東西は7~800mほどあったと考えられます。たいへん大きなお寺です。

                                                                  (2へ続く)