【「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」と山科】(6・最終回) | ふるさと会のブログ

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鏡山次郎

 坂上田村麻呂没す。
 弘仁2年(811)5月23日、坂上田村麻呂は粟田の別邸でその生涯を閉じる。54歳であった。その時、嵯峨天皇は哀んで一日政務をとらず、田村麻呂をたたえる漢詩を作って、従二位を贈った。同月27日、田村麻呂は、「山城国宇治郡七条咋田西里栗栖村」に葬られた。勅命により田村麻呂は甲冑武器を帯びた立姿で葬られたという。
 墓の場所は清水寺に残る史料、弘仁2年(811)10月17日付の「太政官符(だじょうかんぷ)」の表題に記されていた「山城国宇治郡七条咋田西里栗栖村の水田、畑、山を与える」という文言から、特定されていた。
 現在、京都市立勧修小学校の北側、勧修寺東栗栖野町に「坂上田村麻呂公園」があり、「坂上田村麻呂の墓」とされている墓地がある。この墓地は、江戸時代の拾遺都名所図会にも「田村将軍墳(田村丸)」と記載されており、地元の伝承も確かなことから、明治28年(1895)、京都市が「平安遷都千百年」を記念して整備したものである。そして最近に至るまで、ここが田村麻呂の墓地として、戦時中などは山科の全小学生が年に一度、この地を訪れ、軍神にあやかって「必勝祈願」をしていたのである。
 しかし、平成19年(2007)になって、京都大学大学院文学研究科の吉川真司・准教授(日本古代史・当時)が文献調査で特定した。これによれば、大正8年(1919)にすでに発見されていた「西野山古墓(こぼ)」の可能性が極めて高いという。田村麻呂が創建した清水寺に残る、平安後期編纂(へんさん)の『清水寺縁起』に墓の位置が記されていたという。
 氏によれば、「太政官符」の表題に記されていた「山城国宇治郡七条咋田西里栗栖村」と、平安時代後期から鎌倉時代初期頃に作成された勧修寺の『山城国宇治郡山科郷古図』と照合すると、西野山古墓の場所と一致するという。吉川真司氏の前には、すでに昭和48年(1973)に地元の歴史考古学研究家である鳥居治夫氏が、条里制の復元研究結果にもとづき西野山古墓が「坂上田村麻呂の墓である可能性が高い」ことを指摘していた。
 「西野山古墓」は清水寺から南東約2キロメートルの山科区西野山にある。8世紀後期から9世紀前期頃のものと見られ、田村麻呂の時代と一致する。大正8年(1919)に地元住民が竹藪に土入れ作業をしていたところ、偶然に上部と周囲が木炭で覆われた木棺墓を発見、墓穴が見つかった。京都大学により発掘調査が行われ、内部から、武人の墓にふさわしい純金の装飾を施した金装大刀や、金銀平脱双鳳文鏡、鉄の(やじり)などの副葬品が出土した。遺物は昭和28年(1953)に「山科西野山古墳出土品」として「国宝」に指定され、現在、京都大学総合博物館が所蔵している。
 この場所は平安京の東の玄関口にあたる場所で、そこを守る所に田村麻呂を葬ったことから、当時は「死んでも平安京を守ってくれる武将」という信仰があったのかも知れない。田村麻呂は、「私が死んだときは、体に(よろい)(かぶと)をつけ、手には太刀(たち)をにぎらせ、立ったまま埋葬してほしい。そして、御所の見えるところに埋めてほしい。いつでも御所を守っていたいから」と遺言したと伝えられている。実際にその通りに埋葬された。この点について『京都府山科町誌』は次のように記している。

 (田村麻呂の死を)天皇は大に哀惜(あいせき)したまひて、従二位を贈られ、當郷の栗栖野村の水陸田、山林三町を賜ひて、墓地となさしめ、()つ詔せられて、その屍を棺中に立てしめ、甲冑(かっちゅう)(かむ)らしめ、剣矛(けんぼこ)弓箭(きゅうせん)を帯びしめ、西平安城に向つて土葬せしめられた。これ田村麿の忠烈武勇の威望によつて、永く平安京を鎮護せしめたまはん御意思であつたことと拝察せられる。
(*京都府山科町役場編『京都府山科町誌』京都府山科町役場発行、昭和5年(1930)、p40)

 現在、山科区勧修寺東栗栖野町の「坂上田村麻呂公園」内にある田村麻呂の墓は、地元の保存会や、勧修おやじの会の方々によって定期的に清掃活動が実施され、地元の大切な史跡として守られている。また、毎年6月第1日曜日には、清掃の後、清水寺僧侶による読経が行われ、田村麻呂の遺徳を偲んでいる。(終)