肥汲みの話 | ふるさと会のブログ

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山科の魅力を山科の歴史を通じて記録しようと思います。

山科人

 先日、勧修寺の門跡である筑波常遍師のお話を伺う機会があった。飄々としたその話しぶりに惹きつけられた。特に印象に残ったのは、若い頃この勧修寺に初めて来られ、近くに住む古老に聞いた、という山科の話である。
 その一つが、どうして東野という山科のほぼ真ん中に刑務所が作られたのか、ということであった。移転問題も持ち上がっている中でのタイムリーな話題でもあり、聞き手一同がその答えを考えていた時、門跡は「大量の下肥が手に入るから」と言われたのである。そのとき、若い人がその意味を明らかに理解していない中、年配者がもらす「うーん、そうか」という同感のため息が会場を支配したのだった。
 肥汲みを体験、もしくは見たことのある年代は今となっては60歳代以上だろうか。兼業農家であった我が家でも、肥汲みは日常的なものであった。汲み取りは大概、夕方である。作業を終えて風呂に入れるからだ。畑の隅にある肥溜めの中にいったん移すのは発酵させるためだったのだろうか。小学生のころ、父と一緒に半荷(はんか)だけ荷うのを手伝わされた。えげつない匂いと天秤棒が肩に食い込む痛みは今でも忘れられない。

(肥汲み)

 囚人何百人分の糞尿は、肥料不足にあった山科の農家にとっては、すぐ近くで手に入るということで羨ましいものであったはずだ。きっと刑務所を山科に、という誘致活動をした人がいたのだろう。刑務所に限らず、学校の便所も対象になった。放課後、運動場で同級生が遊んでいるそばを隠れるようにしてリヤカーを引き、山手の田んぼ運んだ、という戦後の苦しかった生活を綴った文章を読んだことがある。
 普通は山科から京まで大八車やリヤカーに肥タンゴを載せ、九条山を越えねばならなかった。下肥は百姓にとっては貴重な農業資材である。一方、町の人にとって百姓は汲み取りという汚物処理をしてくれるありがたい業者であった。タンゴの中身がこぼれないように、蓋との間にわらで編んだ帯のようなものを巻きつけていた。なんという名前であったか。
 この仕事は当然、手間賃が発生する。「うちの親父が肥汲みをして稼いだ金で○○を買った」「肥汲みのリヤカー押しをして、そのまま大学の夜間へ通った」といった苦労話は私の周りでよく耳にしたものだ。バキュームカーの登場以前である。
 江戸時代は野菜を渡して肥を買い取っていたらしい。江戸市中から水路を使って運搬している絵が残っている。車で陸路を行くよりも船の方が大量にしかも楽に運べるわけだ。勧修寺での門跡の話を一緒に聞いていた人とそんな話をしていたら、八十過ぎの鉄道ファンであるIさん「昔は京津電車に専用列車があったんや」。これには一同驚いた。深夜に車内灯もつけず、肥タンゴを積んだ電車が闇夜の山科を走る。つげ義春の漫画の世界に踏み込んでしまいそうだ。
 刑務所が二条城の西からこの東野に移転されたのは昭和2年であった。100年近くも前の話である。