山科人
朝の連続ドラマで、広瀬すずが裸馬にまたがって登場するシーンが印象的である。北海道の牧場風景が広がる中を、さっそうと馬に乗ってゆく姿は広瀬すずでなくても憧れてしまう。
戦前、山科にも牧場はあった。西のはずれ、日ノ岡(現在は北花山山田町)である。もう少し詳しく説明する。一方通行の旧東海道から三条通に出る交差点を50mもどった所、と言えば抜け道を通るドライバーにはよく分かるかもしれない。
山の急な斜面にへばりつくようにして民家が何軒か並んでいるが、キンモクセイの木に [150years house]の小さな札がぶらさがっている。それがかつての牧場の主の家である。
牧場と言っても、綱でつながれた乳牛が何頭か並んでいる狭い小屋を思い浮かべてみていただきたい(どうしても「なつぞら」の景色が邪魔をしてしまうが・・・・・放牧ではない)。そもそもなぜこんな所に牧場があったのか、という疑問が湧いてくる。
子どものころから「あんた何でそんなに大きいのや?」とよく言われた。そしてその次は決まって「牛乳を飲んで育ったんか?」であった。昔、牛乳は高級品で、「病気の時しか飲めへん」ものであった。戦後、子どもたちに栄養を、ということで始まった学校給食で提供されたのは脱脂粉乳である。まずくて嫌な思い出を持つ人は多いはずだ。新鮮な牛乳瓶に入ったのを飲めるのは病人ぐらいだった。バナナや卵も同じような言い方をする。「バナナなんて病気になった時しか食えんかった」
この場所に牧場ができた理由は、病院という消費先があったからである。この民家の玄関横には今も立派な看板「認可明治二十四年六月九日 京都府指令巽第一七三〇号 山科牧畜場牛乳搾取所 京都府宇治郡山科町日岡 長谷川安之介」があり、その横には「京都府立病院御用達」と書かれた昔懐かしい牛乳箱がかけられている。
北花山の長老、M氏によると、納入先は東福寺の第一日赤であった、という。ひょっとしたら両方であったかもしれない。同氏によると、山科の東端である小山にも同じような「牧場」があったという。そちらのお得意さんは大津日赤病院であったらしい。医療は十分な栄養を摂ることぐらいしかなかった時代である。薄暗い病室で患者たちが飲む牛乳は山科産であった。
このことから、山科の持つ地理的な性格が見えてくる。三方を山に囲まれた盆地の山科から外に出るとき、必ず50m程度の高度差を一気に乗り越えなければならない。牛乳が当時どうやって運搬されていたかは知らないが、ガラス瓶であれば相当な重さであったろう。中でもこの地は、標高が約90m。九条山の峠は97mである。府立病院は49m。山科国道西野交差点は39m。すり鉢のへりの高い位置の土地であれば、下るだけなので輸送は楽であったはずだ。帰りの積み荷は軽い空き容器である。飼料の草も手に入りやすい場所である。条件に合うのは山科でもこの地域であった。
生産者にとって消費地は近ければ近いほどよいのであるが、かといって街の中では酪農などはできない。一方、街の人にとっては田舎の「におい」(もちろん、実質的な臭いではなく)は山の向こうであって欲しい。もちろん本当に臭い肥汲みについても同じことがいえるだろう。
NHKの人気番組「ブラタモリ」で、銀閣寺をすまいにした足利義政について触れた回があり、興味深く見た。都の景色を隠すようにポツンと立ちはだかる吉田山があるという理由で、義政はあえて当地を選んだのではないか、というものであった。かつて自分が治めていた「見たくない」都が目に入らない場所を住まいにしたのだ、という説明は実に説得性がある。ひきこもりの義政にとっては絶好のポイントだったのだという推測であった。
手前の東山を、都の粋人が借景と称して風流な気分を味わっているその山の向う、つまり山科では、畑に肥をぶちまけたり、糞にまみれながら牛の世話をする「においだらけの」百姓の生活をしていた。実に千年の都の生活者を「ほどほど近くから」「でも普段は見えないで」支えてきた存在がこの山科であった、と言ってよいのではないか。