山科人
イクちゃんは現在滋賀県に住んでいる。山科から数年前に引っ越していった。若い時からいろいろな仕事を引き受けてやってきた。今は土木の仕事をやっているが、昔のことに比べたらずいぶんと馬力がなくなってきたように思える。もう七十後半になるだろうか。
山科生まれのかつての国務大臣、Oさんといえば「ああ、あの人か」と誰もが知っている政治家がいた。イクちゃんの話。「子どものころ、Oさんのところに東京から大事な客が来るということで、親父の手伝いをしたことがあったんや。Oさんの客に松茸取りを案内して来いと言われた。」毘沙門さんの裏山であったか。当時,山科では松茸がふんだんに採れたといえども、子どもに案内させて、すぐにそのポイントを示せるわけはない。
「犬を連れて行くねんかい。」楽しそうにイクちゃんは言う。親父さんと一緒に行ったとき、松茸を探して採っている間、つながれた犬は持て余した時間に必ずそこで小便をする。マーキングという。後日、同じ山を再びその犬を連れて歩いていく。そうすると、前回山に入った時と同じ場所にくると、決まって同じポイントで、少々人間が綱を引っ張っても、臭いを確かめるようにして立ち止まるのである。つまり、まぎれもなく前回松茸が採れた場所なのである。この近くに松茸が生えているはずだ。これなら親に教えられなくても、鼻のよい犬に松茸のありかを教えてもらえるというわけである。小学生のイクちゃんに「ボン、ようつれてきてくれたなあ」とご機嫌な客が小遣いをくれたそうである。
井戸の掃除を頼まれたことがあったという。昔は何年間に一度は井戸の底ざらえをしていたのだろうか。水を汲みだしてから、ロープ一本で底に下りて、ごみなどを引き上げる作業をしていたのだろう。近所の井戸であったそうだが、そこからたくさんのスプーン類が出て来たらしい。「なんでそんなもんが、ようけあったんやろうな」イクちゃんはその答え(想像しうる家族の軋轢や人間関係など)には触れなかったが、私はその時、大量のスプーンを井戸の中に投げ込む嫁(おそらく)の姿を思い浮かべたのだった。
私の父が亡くなってから畑や田の農作業を一人でやるようになった。畑の一部をイクちゃんに貸すことになり、地代はもらわなかったが、何かと作業を手伝ってもらうことも増えた。コンバインという大型機械を持っていないので、稲刈りをした後は天日干しをしなければならない。「ハサ」(稲木)を組み立て、刈った稲をこれに掛けていくのはなかなか大変な仕事である。いくつもの「足」と呼ばれるクロスにした2本の竹に数mの「カイドウ竹」を横木にしたものをのせ、これに1把ずつ稲を架けていく。作りが弱いと風に倒れたり、ねじれたりして稲穂が地面につくということになってしまう。品種によってはすぐその場で発芽することもあり、すぐに修復する必要がある。台風が来ると何よりも百姓はハサを心配したものだ。一度そのハサが台風でこけたことがあった。その朝、真っ先にイクちゃんが来てくれた。まだ濡れている稲を一旦外して折れた足を交換したあと、もう一度架けなおすのである。オロオロしている自分のとなりで、黙々と作業をしているイクちゃんに頭が下がる思いであった。
父の元気な時はいつもハサを作る時、まっさらの縄を用意していた。新しい米を収穫する時の神聖な気持ちの表れだったかもしれない。でもいつしかビニールテープを使うようになっていた。父のしていたことを思い出しながら、作業している私のそばで、「ええか、紐でくくる時はな、こうやってふんどしをかける(くくった紐どうしを全体でもう一度横から締め付ける)のや。ぐるぐる巻きつけてもすぐゆるなるで。」「紐と紐をくくる時はこうやって最後を一方だけでいいさかい、蝶々にしておくのや。そしたらほどくときに楽やしな。そうせんと、結局ほどけへんで捨てなあかんことになる。」専門にやっている人の納得のいく説明の指導を受けて素直に受け止められたのだった。これが自分の父親だと「うっとおしいなあ」となるところだ。
キュウリやトマトの誘引(伸びてくる茎を支柱に結び付ける)やナスビの枝の剪定も、それまで我流でやっていたのを正してもらったといってよい。遠くから見ていて、「おい、ちょっとその枝切るのはもったいないぞ。ナスビがもっと大きなって、採ってから切ったらええねん」と言われたことがある。スコップの力の入れ方、トタン板のはずし方、鋼管の組み方も教えてもらった。
引っ越していく際に、たくさんの大工や左官の道具類をもらった。幾種類もの金槌やペンチ、トタン用のはさみ・番線を締め付ける「シノ」・クリッパ・サイズごとに瓶に入った釘・建築用の各種パイプなど、おそらく工務店を経営できるほどそろっているのはその時の土産である。現在も重宝している。
イクちゃんの借りていた畑地は今、1m以上の夏草が覆い茂っている。