このあたりはかつて比企一族の屋敷があった「谷戸」という地であったことから「比企谷(ひきがやつ)」と呼ばれています。
☆二天門
持国天と毘沙門天が安置されています。
☆祖師堂
『長興山 妙本寺』
日蓮宗本山(霊跡寺院)
ご本尊 三宝尊
創建 文応元年(1260)
開山 日蓮聖人
開基 比企能本
祖師堂は天保年間(1830〜1844)に建立された鎌倉最大級(12間四面)の木造入母屋造瓦葺です。
☆日蓮聖人銅像
☆比企一族供養塔
「鎌倉殿の13人」で佐藤二朗さんが演じた比企能員は源頼朝に仕え権勢を握りました。能員は源頼朝の乳母をつとめた比企尼の養子にあたり、能員夫妻もまた2代将軍源頼家の乳母をつとめました。
娘の若狭局は源頼家の妻となり、嫡男の一幡を授かるに至りますが、3代将軍をめぐり千幡(後の源実朝)を推す北条氏と対立、後継争いが勃発しました。
比企能員は頼家と北条氏討伐を謀りますが失敗し、北条氏により名越で謀殺され、比企一族はこの比企谷の谷戸に籠って戦うも敗北。一族郎党は屋敷に火を放って自害しました。(比企能員の変)
比企能員の末子(比企能本)はただ一人生き残り助命されます。和田義盛に預けられた後に安房国に入るとなりますが、成人後に京に上り順徳天皇に仕え、承久の乱で順徳天皇が配流になると佐渡までお供をしたといいます。
その後、能本の姪にあたる竹御所(源頼家の娘の鞠子)が4代将軍九条頼経の御台所となったことから許されて鎌倉に帰りますが、竹御所が難産の末に男児を死産、そのまま竹御所も亡くなってしまいます。竹御所は持仏の釈迦如来像を祀るための釈迦堂の建立を遺言していたため、比企谷に釈迦堂が建立され、竹御所はその下に葬られ、比企一族の出身とされる仙覚がその釈迦堂の住持となりました。
その後能本は鎌倉を訪れた日蓮聖人に帰依し、文応元年(1260)に父母の菩提を弔うため新たに法華堂を建立し寄進します。その際に日蓮聖人が父に“長興”、母に“妙本”の法号を授けたことから寺号を「長興山妙本寺」と定めたと伝わります。
さて、妙本寺の境内には「蛇苦止堂(じゃくしどう)」という、なにやら因縁めいた名前のお堂がございます。
☆方丈門
こちらの方丈門を入らずに左手へ進みます。
途中、右手には小さなお社が。
『蛇苦止堂(じゃくしどう)』
妙本寺鎮守
比企能員の娘で源頼家の側室であった
若狭局『蛇苦止明神』
をお祀りします
☆蛇苦止ノ井(蛇形ノ井)
若狭局が身を投じた井戸と伝わります。
比企能員の変の際、当時6歳だった頼家の嫡男の一幡は炎の中で亡くなり、源頼家の側室で一幡の母の若狭局は、家宝を抱えて井戸(または池)に飛び込み自害したと伝えられています。
比企一族滅亡から約60年後、ある奇怪な出来事が起こりました。
「吾妻鏡」文応元年(1260) 10月15日の条
十五日 己酉。
相州〔政村〕の息女邪気を煩ひ、今夕殊に悩乱す。比企判官の女(むすめ)讃岐局が霊が祟をなすの由、自詫(じたく)に及ぶと云々。件の局は大蛇となりて頂に大きなる角有り。火炎の如く、常に苦を受く。当時比企谷の土中に在るの由、言を発す。これを聞く人、身の毛が堅(いよだ)つと云々。
相州政村(北条政村)の娘が、物の怪に取り憑かれ錯乱状態になり、比企能員の娘の讃岐局(若狭局)の霊が、政村の娘に祟りをなしていると言いました。
「死んでから大蛇の姿となり、頭に大きな角がある。火炎のような苦しみを常に受け、今も比企谷の土中にある」
と語り、この話を聞いた人は身の毛のよだつ思いだったといいます。
政村の娘のこの状態は1ヶ月以上も続いたといいます。
11月17日、北条政村は娘を助けるために法華経を1日で写経し、怨霊を鎮めるために手を尽くしました。鶴岡八幡宮の別当の隆弁が招かれ、祈祷の際に娘に説法を行ったところ、舌を出し唇を舐め身を動かし足を延ばして身悶えし、まるで蛇身が現れて説法を聴いていたかのようだった、と記されています。
隆弁の説法が終わると、娘は呆然となり眠るようにして祟りから覚めたそうです。政村は比企谷に蛇苦止堂を建立し手厚く供養しました。
妙本寺の「諸堂紹介」を拝見する讃岐局の弟の比企能本が日蓮聖人に救いを求め、日蓮聖人が法華経の功徳により讃岐局を成仏させ、蛇苦止明神として祀った、と紹介しています。
比企能員の変は建仁3年(1203)9月2日に起こりました。毎月1日は蛇苦止明神の例祭、9月には例大祭が執り行われます。
☆御朱印
蛇苦止明神の御朱印ですが、何パターンかあり、一人一人違う内容が書かれたおみくじのような紙もいただけます。楽しいのでオススメですよ🔮
自害したとされる若狭局ですが。。。
『愚管抄』によれば、息子の一幡とともに逃げたものの、一幡は北条義時に殺されてしまったと伝えていますが、若狭局はどうなったのでしょう。
比企能員が領していた武蔵国比企郡の一部に東松山市があります。能員の館跡に建てられている宗悟寺は、若狭局が源頼家の菩提を弔うために建てた壽昌寺をはじまりとしており、近くの串引沼は若狭局が頼家の形見の櫛を捨てた沼だと伝えられています。
そして宗悟寺には頼家の位牌と蛇苦止観音像が残されているそうです。
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