さて、今日は東身延とも称される鎌倉日蓮宗本山のこちらの寺院をご紹介⭐️
☆仁王門
江戸時代の建立で、三浦半島の寺院にあったものが明治時代に移築されました。
かつては若宮大路に向けて入口を作ってはいけないとする慣習規則があったそうで、小町大路に向けて建てられています。
☆仁王様
☆夷堂
かつて山門前には「夷三郎社」と呼ばれる夷堂があり、源頼朝が鎌倉幕府開幕の際に、幕府の裏鬼門(南西)の鎮守として建てたとされ、天台宗系のものでした。文永11年(1274)に佐渡配流から帰った日蓮聖人が、四十数日にわたり夷堂に滞在し、三度目の「立正安国論」奏進に備えたと伝わります。
明治の神仏分離令により、夷堂は移転し蛭子神社に合祀されますが、昭和56年に本覚寺に再建されました。
本覚寺の始まりである夷堂。鎌倉・江の島七福神の一つであり、なんと鎌倉随一の商売繁盛のご利益があるそうですよ!
☆本堂
永享8年(1436)、常在山本覺寺(静岡県三島市)の一乗房日出が鎌倉へ転出し、天台宗金龍山釈満院円頓宝戒寺の住僧の心海と問答を繰り広げ(永享問答)勝利を収めました。
日出の勢力が拡大するのを危惧した心海は、諸宗の僧侶たちと合議し当時の鎌倉公方の足利持氏に訴えましたが、日出もまた同時に事の顛末を記した「問答始末記」を提出。その結果、足利持氏は鎌倉の日蓮宗の壊滅を画策し、16ヶ寺を取り潰し僧侶や信徒を弾圧します。しかしこれに反発する数百の信徒が荒居閻魔堂(現在の新居山圓應寺)に終結、一触即発の状態になりました。
幕府との緊張関係が極限に達していた足利持氏は、この蜂起が鎌倉府討伐乃口実となることを憂慮し処分を撤回。さらに持氏の枕元に夷神が現れ「日出を殺すな」と告げたといわれ、日蓮聖人ゆかりの夷堂とその社領12000坪を日出に寄進し、法華寺院の建立を認めました。
この一連の騒動は「永享法難」と称され、本覚寺創建の由来と伝えられています。
永享法難後の文安3年。日出の弟子の行学院日朝が第2世として晋山し、15年の在山の後に身延山久遠寺第11世として栄晋。当時は衰退していた身延山の再興を図りました。その際に身延山への参詣が困難な老人や女性のために、身延山より日蓮聖人の遺骨を分骨して本覚寺に納め、これ以降「東身延」と称されるとともに、日朝が眼病の治癒で非常に信仰を集めたことから「日朝様」と呼ばれ親しまれています。
戦国時代以降は、後北条氏・豊臣氏・徳川氏から代々寺領12貫200文を保証され、塔頭末寺併せて10ヶ寺を擁する中本寺へと発展。開山700年目の昭和49年には本山(由緒寺院)に昇格し現在に至ります。
☆鐘楼
応永17年(1410)銘の梵鐘があります。
日出が木更津八幡宮の別当寺で法論に勝ち、従者に持ち帰らせたと伝わります。
☆しあわせ地蔵
☆石渡新造左エ門の碑
日出が木更津八幡宮の別当寺で法論に勝ち、梵鐘を従者に持ち帰らせたという伝承がありましたが、その強力の従者「石渡新造左エ門」の碑です。
☆人形塚
☆手水舎
ドラマ「最後から二番目の恋」のロケ地としても有名な本覚寺。
夷神が商売繁盛・招福・良縁を授けてくださるという「にぎり福」というお守りが大人気とのこと💖
境内には「相州伝」と呼ばれる作風を確立した名刀工「岡崎正宗」のお墓もあるそうなので、刀剣大好きな方はぜひお参りされてみてくださいね🗡️
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