奈良を歩く☆宗我坐宗我都比古神社 | ゆだぽんの♬虹色オーラ♬ブログ

ゆだぽんの♬虹色オーラ♬ブログ

お寺や神社巡りで感じた事や、不思議な話・オーラについて…などなど書いています。

歴史作家『関裕二』先生

🦌奈良を歩く〜歴史感じる日帰りツアー〜🦌


6月17日(金)〜19日(日)の3日間、フルで参加してまいりましたキラキラ今日からそちらの記事となります♪


1日目のスタートは午後から♪

12:45に近鉄真菅駅に集合です。


おそらくこの日は3日間の中で1番暑かったと思います晴れ





ツアーの始まりは

蘇我氏の始祖をお祀りするこちらの神社さんです⛩





『宗我坐宗我都比古神社』

そがにますそがつひこじんじゃ


ご祭神

宗我都比古大神  宗我都比賣大神





関先生のお話をお聞きした後、蘇我氏の末裔の北西宮司様が登場ハート

この日は正式参拝させていただきました🙏


宗我坐宗我都比古神社へは、3年前の関先生の奈良ツアーでも正式参拝しております。宮司様とはその時と、昨年の「蘇我一族の会」でお会いしております。





宗我坐宗我都比古神社は、奈良県橿原市曽我町に鎮座されています。この曽我の地は古名を蘇我と記し、第8代孝元天皇の御子である彦太忍信命(ひこふとおしまことのみこと)の孫にあたる竹内宿禰の第三子石川宿禰が蘇我の大家を賜って大阪河内から移り住み、姓を「蘇我」と名乗ったといいます。


33代推古天皇の御代になって、蘇我石川宿禰五世の孫である馬子宿禰がこの地に社殿を造営して始祖夫妻をお祀りしたと伝えられ、これが宗我坐宗我都比古神社の起源とされます。


神社創建後数十年で蘇我氏宗本家は入鹿とともに滅亡しましたが、分家筋はその後も飛鳥朝の要職を務め、次第に勢力は衰えながらも、その一族は蘇我(宗我)姓を名乗り続け、神社奉仕を続けました。


江戸期には宗我姓を別の三姓に変えましたが、宗我座として神社を守り続け、その中の一家が神官を務め現在に至っています。







八太夫稲荷神社



朱塗の鳥居の奥には八太夫稲荷神社を中央に

向かって左側に戎神社(ご祭神 大国主命)

向かって右側に八坂神社(ご祭神 素盛嗚命)


蘇我氏と出雲はとても関わりが深いことが分かりますよね(謎)


飛鳥時代、蘇我氏は

稲目馬子蝦夷入鹿

と順に歴史の表舞台に現れるようになり、当時の先進国であった大陸(中国・朝鮮半島)の文化や技術、政治などを積極的に取り入れ、先進国に肩を並べる国にすべく、天皇の下で取り組んでいました。


飛鳥朝の中での勢力拡大に伴い、蘇我氏の専横を快く思わない勢力中大兄皇子や中臣鎌足等のクーデターにより暗殺された入鹿と共に、蘇我氏宗本家は滅亡することになりました。


奈良時代に編纂された「日本書紀」には、中大兄皇子や中臣鎌足等が成し遂げた律令制の導入などの成果が記されていますが、日本書紀は日本の国史であった事より、蘇我氏の悪行と暗殺の正当性と合わせ「大化改新」として長く伝えられ、明治以降の学校教育で教えられていました。


しかし最近では日本書紀の記述に疑義が持たれ、蘇我氏の業績と悪名の見直しがされるようになってきているとのこと。わたくしも蘇我氏の名誉がさらに回復されることを切に願っています。


日本書紀が編纂された時の権力者は藤原不比等。不比等の父である中臣鎌足や中大兄皇子側の視点で記されていますので、当然蘇我氏などが悪名高くなってしまうわけです。歴史書はそのような視点を持って読むことが必要なんですよね。





これは私個人の感覚ですが…蘇我氏の宮司さんはかなり白いので、そのことが蘇我氏の本質を物語っているように感じます。



⛩6月26日(日)は神人和楽in戸越八幡神社



🍀ゆだぽん公式LINE 鑑定はこちらから



⛩出羽三山勉強会募集中です



🌈対面・オンライン鑑定ご好評いただいております




人気ブログランキング