一昨年3月末、滋賀県内で環境問題や平和学習会等をしていたグループのメンバーが集まって、話し合い、原発について学習し、「脱原発」を目指すための活動を始めることにしました。


福島原発の大事故を見て、小さな子供を育てている若いお母さん達が、「じっとしてはいられない!何かしなきゃ!」と立ち上がったのです。

生協で、平和の活動をしていた私達若くないお母さん達や市民運動をしているおじさん達も加わりました。


小さな子供や赤ちゃんや胎児は、大人よりずっと放射能の影響が大きいと知り、どうすれば「外部被爆」も「内部被爆」も防げるのか?学びました。


原発が造られていった仕組みや、利権構造もわかってきました。

それまでは、遠い存在だった地元の議会や首長に要請書を出すという経験も重ねました。

学校給食の放射能検査機器購入を実現出来た町もあります。


「もんじゅ」を含んで14基もの原発が並ぶ「若狭原発銀座」が、琵琶湖の風上にあるので、福島のことは「ひとごと」ではないのです。


お母さん達が、何よりも大切で、守りたいと思うのは、子供達の命、その健康と笑顔だから。


貧しい生活になっても、不便な生活になっても、子供達が元気で笑っていてくれれば、お母さん達は頑張れるんです。  

夫のためには死ねなくても、子供の命を救うためなら、自分の命も投げ出せるのが母親です。


それなのに、財界や政界のオッサン達は、経済が空洞化する方ばかりを心配し、電力会社の利益を守る方を優先して、大飯原発再稼動を強行しました。


命あってこその経済!ではないのか?
国民の安全や健康より、自分達の金儲けが大事なのでしょう。

もうすぐ二年になるのに、16万人(でしたっけ?)もの人達が故郷に帰れない、帰らないでいるのに。


福島の地元議員が、「ガンになっても、今後医学が発達して治療出来るようになる。それより経済がたちいかなくなる方が大変だ」と発言したそうです。

信じられない感覚です。





3学期は、いよいよ先生とPTAについての記事を作る予定でした。


アンケートでなく、どうするか?検討していたら、校長からストップがかかりました。


PTA新聞は、市や県や他の学校にも配布するので、先生達の意見を載せるのはちょっとマズいとか言っていたと記憶しています。


4月に赴任して来られ、挨拶した時には、「風通しの良い学校に!」と言っていたのは、タテマエか?と私達は不服でしたが、“P”と“T”は、対等ではなく、記事を作る時にも、広報担当の先生が出席したのは、夜会議を開いた一回だけでした。


お父さんの委員も二人いたので、編集会議は土曜日の午後開いていて、出席しようと思えば、出来たと思いますが、先生が意見を出したら、採用しないのはためらわれるので、まかせてもらった方が自由に作れたと思います。


先生達に取材しない代わりに、総務の先生が原稿を書いてくれることになりました。

みんなで、提出された原稿を読んだら、PTAのPの字も無い、子供達の登校風景の話でした。

「こんなの、ボツ!書き直すように言って来て!」と言いながら、言えない私達で、仕方なく載せたのでした。


やはり、学校は「開かれた場所」とは思えない体験でした。

もう、20年以上も前の話ですが。


先生達は、何を守っているのでしょう。

子供達の心や笑顔を何より一番に守って欲しいです。






子供が、親に問題を訴えた時、どう対応するか?親の姿勢が問われると思います。

私は、気が弱く、人に苦情を言ったりするのが苦手で、直接先生に言うことが出来ませんでした。


息子が顔をぶたれていたのだったら、先生に会いに行ったでしょうが。


それで、アンケートに書きましたが、広報の紙面には載らなかったと記憶しています。

その後、先生が子供達をぶつことも無くなったと記憶しています。


教育熱心な親が多い学校だったせいか、
お母さん達へのアンケートは、かなり回答率が高く、委員全員で集計しても時間がかかりましたが、先生への希望では、貴重な意見が数々あり、きちんと紙面に取り上げました。


「子供は、みんなそれぞれ良い所を持っています。短所を直すだけでなく、良いところを見つけて、褒めて下さい」というのが記憶にあります。


PTAの担当をしている年配の先生が、週に2回も3回も集まって、記事を作っている私達に、「そんなに頑張らなくても、テキトーに作ればいいのに~」と言っていたと聞き、「ほっといてー!」「私達、パートに来てるみたい」と言いながら、編集していました。


この時の特集は、毎日新聞の「PTA新聞コンクール」に応募したら、優秀賞に選ばれたのです。


大阪本社での受賞式には、代表四人で出席しましたが、賞状だけで、賞品は無かったのが残念でした。

次の年に広報委員になった人達には、かなりプレッシャーになったそうですが、頑張って連続受賞したそうです。