それから、今回桐生に行って感じたのは地域性だ。ただし、よく言われる「保守的な地域」とかいうことではない。もっと単純なこと、都会か田舎かということだ。
私の地元、横浜などでは、学校以外にも楽しめる場所がたくさんある。ちょっと足を伸ばせば「地元の目」を気にせずにふらつける。ストリートに出ればちょっとヤバイやつらともオチカヅキになれる。
田舎じゃこうはいかない。学校に行かなければ「○○ちゃん、どうしたのかしら」と噂になる。ふらつけるような場所もない。かといって、ひとりぼっちは誰だって寂しい、つまらない。みんなと一緒に楽しく、といったら学校でイジメでもするのが手っ取り早い。イジメられる側だって、一人になるのは怖いから学校にしがみつかざるを得ない。
ちょっと古いが尾崎豊の「十五の夜」や「卒業」みたいなことをできる子は少数派だ。「盗んだバイクで走り出」したり「夜の校舎、窓ガラス壊して回」ったりしたら先生に目を付けられて高校にもいけなくなる。
知り合いの大学教授が「学校説明会の後の個別相談で女子高校生から『先生の学部に入ったら一緒にお昼を食べる友達ができますか?』と質問された。」と言っていた。一緒にお昼を食べる相手ができるかどうか、これが大学や学部の選択基準になりうる。それほど1人になるのは怖い、これが「イマドキの子ども」の気分なのだろう。
しかし、彼(女)らの住む世界は狭い。高校では一年間同じクラスにいても名前と顔が一致しないなんていうのはざらだ。4,5人、せいぜい一桁の「仲良し」がいて、十数人から数十人が「知り合い」(「友だち」と呼んでいるかも知れない)あとは大多数の「どうでもいい人」に囲まれている。「どうでもいい人」は当然「どうなってもいい人」だ。
「同じ学校に通う仲間」だの「クラスの絆」なんて言葉は彼(女)らにとっては意味を持たない。たとえ教室で隣の席に座っていても、それが「どうでもいい人」だったら、どんなにいじめられようと関係ない。下手にかばったり先生にチクったりしたら、今度は自分がいじめられる。
シンポジウムで内田良子さんは「いじめられてる生徒が学校に行くと、周りの大人も生徒も、ああ、大丈夫なんだ。と誤解する。だからなまじっか学校に行くとイジメは深刻化する」とおっしゃっていた。大人は多分そうだろう。でもいじめている生徒はそうだろうか?「まだいるのか、目障りなやつだな、イジメられ足りないんだな。じゃあ、もっとやってやろう」というのが本当の気分ではないだろうか。いじめを見ている生徒にとっても「この子、いつまでもつのかなぁ」というちょっとした興味の対象にしかならないだろう。
(まだ続く)



